アーティストとコンテクスト
前回の投稿「日本のアートを縛るもの ー コンテクストなき批判」では、作品や作家を批評する際にコンテクストを踏まえているか否かでその批評の妥当性が判断されるという旨を書きました。批評家やキュレーター、ギャラリスト、アーティストなど、アートに携わる人が作品を批評する際には、教養としてコンテクストをどこまできちんとと押さえているかが問われます。
しかし、それはあくまで批評する場合の話であり、アーティスト側にもコンテクストを求める必要があるかどうかとなると話はまた変わってきます。結論から言うと、アーティストにとってコンテクストは必ず押さえなければならないものではありません。しかし、国外で作家活動を行ったり、日本以外の国のギャラリーや助成金の手を借りる場合は、いずれコンテクストを無視できない状況に直面することと思います。
もしあなたが駆け出しのキュレーター(展覧会でどの作家に展示してもらうか選ぶ人)だった場合、どのようにして展示作家を選ぶでしょうか。あなたはまだ駆け出しなので、人気作家をいきなり呼んでくることはできず、同じくまだ無名の駆け出し作家の中から誰かを選ばなければなりません。ある作家を選んだ場合、あなたは何をもってその作家を選んだと周りに説明するでしょうか。あなたの好き嫌いという感覚的な理由だけでは展覧会に出資してくれているスポンサーは納得してくれませんし、あなたが好きな作家というだけでは観客は見に来てくれません。展覧会の内容次第によってはスポンサーの品位も問われるので、あなたの責任は重大です。あなたは展示する意義や、この作家がこれから人気になるであろう、その根拠を説明することが求められます。未来のことはわかりません。したがって、あなたは放物線からボールが落ちる位置を推測するように、作家とアート史の過去から現在に至るまでの流れを調べて、この作家が今ここで展示する意義と、これからどのように人気が出て行くかという予測を、背景を交えながら筋道立てて説明する必要があります。マーケティングによってこれからの流行を予測し、作り出すのと同じです。この過去から現在に至るまでの流れのことがコンテクスト(文脈)と呼ばれているものです。すでにいくつも展覧会を成功させ、信頼と実績のある人気キュレーターなどだったら説明不要で作家を起用できるかもしれませんが、そうでなければこのようにコンテクストを踏まえた理論によって周囲を説得する必要が度々生じます。
これはギャラリスト(作家と契約し、作品を売買する仲介業者)も同様で、どの作家がこれから売れるか、またその作品にどのくらいの値段をつけるかを判断したり客に売り込んだりする際に、コンテクストから情報を引き出してきます。骨董品の価値が個人の好き嫌いだけでなく、歴史的要素や希少性(需要と供給のバランス)などのデータベースに裏付けされて決まるように、アート作品にも価値に説得力を持たせるための理屈があり、その理屈の土台となるもの一つとしてコンテクストが利用されます。
それでは、今度はアーティストの視点から見てみましょう。もしあなたが売れるかどうかなど関係なく、純粋に作りたい、表現したいという衝動に駆られて制作しているなら、キュレーターやギャラリストに選ばれるかどうかはどうでもいいことなので、コンテクストなど気にする必要がありません。しかし、もしあなたがアーティストとして有名になりたい、作家活動だけで生きていけるようになりたいというならば話は別です。もしもあなたの作風が運良く時代(コンテクスト)に合っていれば、好きなものを作っている内にそれが評価され、何も特別なことをしなくても企画展の話が舞い込み、ギャラリーの方から契約してくださいと頭を下げにきて、順風満帆に成功することもあるかもしれません。だけれども、そんなサクセスストーリーを歩める人どれほどいるでしょうか。大抵は作りたいものを作っているだけでは思うようには売れず、誰かから選んでもらえることもありません。キュレーターやギャラリストに選んでもらい、アーティストとして売れたいならば、キュレーターやギャラリストがどういう基準で作家を選んでいるのか調べ、コンテクストを踏まえた受けの良い作品を作り、企画展やギャラリーに自ら売り込んでいく必要に迫られます。結局、作品や自分を売りたいのであれば、他の商売と同様にマーケティングを行い、需要を把握し、人々が望むものを供給するしかありません。あとは自分が作りたい表現したいものと、需要を擦り合わせ、どこまで拘り、どこまで妥協するかという問題になります。
ただ、世の中でそのようなことができる器用なアーティストばかりではありません。そこで、仲の良い批評家や文章能力に秀でたアシスタントに代弁してもらったり、コンセプトを考え説明する人と作品を作る人というように役割分担をしてチームを組んで活動したりするアーティストもいます。
また、海外で活動する場合はそこに言語の壁も立ちはだかります。下の写真は私がベルリンにいた時にBERLIN-WEEKLYというちょっと変わった小さなギャラリーで展示した《Die Verwandlung(変身)》という作品ですが、小さなギャラリーを借りる場合でもまず作品のコンセプトシート(企画書)をギャラリーに提出して審査を受ける必要があります。そもそも、日本のように賃貸料を払えば誰でも展示できるギャラリーは珍しく、ギャラリーと名乗るからにはギャラリーとしての理念や方針があり、各ギャラリーは他のギャラリーとの差別化を図るために取り扱う作家の選別を行うのが本来のあり方です。そしてその選別はコンセプトシートやイメージスケッチなどを提出して判断されるのですが、それはもちろんその国の第一言語(ドイツならばドイツ語)もしくは英語などギャラリーが指定する言語で書かなければなりません。
この展示の際には、まず英語で書いたコンセプトシートを英語が母国語の知人にチェックしてもらい、その上で批評家の方にコンセプトシートと作品を見せて書いてもらったドイツ語のテキストを添付してギャラリーに提出しました。批評家のテキストは添付する必要があるわけではありませんが、暗中模索しながらコンセプトシートの書いている状態で、コンテクストに沿った説明を自分ですることも難しかったので、専門家の力を借りて自分が説明しきれない部分を代わりに第三者の目から説明してもらった形になります。
キュレーターやギャラリスト、あるいは批評家や審査員が何をもって判断しているかは地域や状況によって異なってきます。欧米をはじめとした海外ではコンテクストが重視されていますが、前回の投稿でも書いたように、日本ではまだコンテクストはそれほど重視されておらず、むしろ作家が言葉で説明したりアカデミックに寄ったりすることが批判される場合もあります。客観的な判断の拠りどころとなるコンテクストが軽視されていると、評価・選別する側の好き嫌いなど主観的な判断による影響が大きくなり、評価・選別を行う有力者と面識があり、気に入って貰えている人の方が名を売りやすくなります。もちろん海外にもそういった依怙贔屓的な構造がない訳ではありませんが、日本はそういった側面が顕著だと言えるのではないでしょうか。したがって、日本国内で作家として最短距離で成功したいのであれば、コンテクストに沿った作品作りよりも人脈作りを重視した方が効率的かもしれません。また、そもそも日本の場合は美術館の館長などが美術についてほとんど知識のない天下りの政治家や官僚であることも珍しいこともでもなく、そのような人達にはコンテクスト云々などと言っても通じないので、観客動員数などの数字を出した方が有効です。特に地域の芸術祭などの地方アートなどは、運営資金が市や県の文化や観光振興に関する予算や助成金から出されていることも多く、どれだけ観客が動員できるかが成果として見られるので、歴史や政治的な要素を複雑に織り込んだ深みのある作品よりも、インスタ映えする作品や考えずに楽しめる参加型の作品など、一般受けする作品の方が成果として評価されやすいと言えます。
しかし、日本のアートへの予算や投資・市場規模は決して大きいとは言えず、日本で活動することに限界を感じるアーティストも多いのが現状ではないでしょうか。そして海外で活動したいと考えるようになると、やがてコンテクストを学ぶ必要性に迫られます。独学でコンテクストを学ぶこともできますが、現代アートは現代社会の問題を反映した作品も多く、学び始めるとアートだけでなくあらゆる分野の知識が必要になり、どこまで勉強したら良いのか分からなくなります。私は海外の大学に通ってコンテクストを学んだわけではなく、本を読んだり自分で調べたりしながら学んでいますが、読むべき本や調べなければならないことは調べれば調べるほど次から次へと出てきて、終わりが見えてきません。批評家やキュレーターであれば常に知識をインプットし続けるのも仕事の内ですが、アーティストの本業はあくまで作品制作であり、コンテクストを踏まえることは作品制作における過程もしくは手法の一つでしかないため、コンテクストを追うことに疲弊して作品が作れなくなってしまうのでは本末転倒です。できるならば、海外の大学もしくは大学院に入り直し、基本的なコンテクストを学び直してから自分の方向性を決めて海外で活動するのが望ましいでしょう。
評価してもらうため、もしくは過去の作品を踏まえた上でより質の高い作品を作るために、コンテクストを学ぶことはアーティストにとっても重要ですが、コンテクストに囚われ、コンテクストありきの作品作りに陥ってしまうのもまた問題です。マーケティングによって作られた流行が一定のスパンで似たような流行を繰り返すように、キュレーターやギャラリストの思考を読み、彼らが求める作品を作る作家ばかりになると、似たような見た目や似たようなメッセージの作品が溢れかえり、アートシーンは予定調和にまみれ閉塞した、つまらないものになってしまいます。作家として成功するために打算的に売れる作品を作るということ自体は悪いことではありませんが、それは既存のマーケットに依存しているだけであり、そのような作家の作品にはマーケット自体を刷新・活性化する力はないため、そういった作家が増えるほどマーケットは食い潰され縮小していき、やがて共倒れとなります。キュレーターやギャラリストが本当に求めているのは、既存の需要を満たす存在よりも、新たな需要を生み出してアートシーンを活性化させ得る、過去にはない新しいもの=強烈な独自性を持った作家や作品ではないでしょうか。温故知新という言葉があるように、過去を学ばなければ本当に新しいことはわかりません。アーティストには「何のためにコンテクストを踏まえて制作するか」が問われます。
BERLIN-WEEKLYについて
Stefanie Seidl氏によって2010年から運営されているアートスペースギャラリー。毎月作家が入れ替わりながら展示が行われる。スペースはギャラリーが多く集まるベルリンのミッテ地区に位置しており、他のギャラリーとは違い観客はギャラリーの中には入れず、ショーウィンドウのように外側からガラス越しに作品を鑑賞するため、その構造を活かした実験的な作品が展示されることも多い。