日本のアートを縛るもの - コンテクストなき批判

日本で時々耳にする批判に、「あの作家は全部アシスタント任せで自分で作品を作っていない。だからあんなものは作品(アート)とは呼べない」という内容のものがあります。現代アートに触れる機会が増えた現在、そのような批判を聞くことは以前より減ってきたと感じますが、それでもいまだに日本でこの批判を口にする人は少なくありません。かく言う私も、ベルリンでアーティストアシスタントの仕事をしている際に、彫刻制作会社に外注して作ってもらった彫刻を、そのまま作品として展示する彫刻家がいることをはじめて聞いたときには、そんなのアリなのかと驚きました。

しかし、そのように制作会社に作品を外注して作ってもらったり、アシスタントに制作をほとんど任せてしまったりしている作家の作品が、「自分で作っていないからその人の作品とは言えない」と批判されている場面を、現代アートが盛んな海外ではほとんど目にしたことがありません。ブラック企業と同等かそれ以上の劣悪な環境で美大生などをアシスタントやインターン生としてこき使い、搾取を行なっている作家が批判されることは度々ありますが、それは人権・倫理に関する問題であるところが大きく、本人が実際に制作しているかどうか自体はあまり問題視されていません。

では、なぜ日本では「自分で作ってないものは作品として認められない」と言う人が少なからずいて、海外ではそのような批判があまりないのか。それを理解するためには「アート」と一括りにされているものをもう少し細かく分類して考えてみる必要があります。

まず、「作品=自分の手で制作したもの」ということに重点を置く考え方はクラフトアート(もしくはアートクラフト)というものに分類されます。クラフトアートは日本語では美術工芸と訳されることが多く、クラフトだけだと手工芸と訳されます。つまり、自分の手でつくることに重点を置いた美術ということです。クラフトアートというと陶芸や木工などの手工芸品のことを思い浮かべる人が多いかと思いますが、「何を表現するか」だけでなく、「自分の手で制作すること」にも重点を置いているなら、それはクラフトアート的な要素が強く含まれていると言えます。絵画や彫刻などは「絵画という手法」、「彫刻という手法」に重点が置かれているため、それだけでクラフトアートとは別物だと考えられがちですが、そこで重視されているのは出来上がった作品が最終的に「絵画的な形態をとっているか」「彫刻的な形態をとっているか」ということであって、「自分の手で制作する」ことは絶対条件ではありません。日本の美術は工芸的であるとよく言われますが、その傾向はこの「自分の手で作ること」という呪縛から生じています。

因みに、クラフトアートに分類されたから他には分類されないということはなく、「彫刻」であり、かつ「クラフトアート」であり、「現代アート」でもあるというように、一つの作品が複数の分野にまたがって存在していることは珍しくありません。クラフトアートは数多くあるアートの分類・分野の中のほんの一つでしかなく、したがって、自分で制作していない作品のことを「クラフトアートではない」と言うことはできても、それを「アートではない」と批判してしまうと、批判した側がナンセンスであるとされてしまいます。

自分で作ることが作品の必要条件でないならば、何をもってして作品とするのか。それを説明する好例といえるものにコンセプチャルアートがあります。コンセプチャルアートで重要視されるのは「コンセプト」、つまり「何を、何故、どのように表現するか」ということです。「どのように表現するか」には、自分ではない誰かに制作を任せる、既製品を利用する、物として何かを作らない、などといった選択肢も含まれます。

コンセプチャルアートが生まれるきっかけとなった有名な作品に、マルセル・デュシャンの《泉》があります 。ご存知の方も多いと思いますが、この作品は小便器にR.MUTTとサインを入れて置き方を変えただけのものです。デュシャンはこの小便器を1917年のニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で送りました。しかし、無審査で誰でも展示できるはずのアンデパンダン展で、便器はマット氏が自分で制作したものではないから作品として認められないと展示を拒否されます。デュシャンはそれを受けてアンデパンダン展の委員を辞任し、展示拒否に抗議した「リチャード・マット事件」というテキスト中で「… マット氏が自分の手で《泉》を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ…」と公表しました。このデュシャンのテキストと《泉》はアーティスト達の間で物議を醸し、この騒動をきっかけに、自分で作ったかどうかではなく新しい観点から新しい考え方を生み出すことに価値があるという考え方が多くの作家に影響を与えました。その結果、現在デュシャンの《泉》はアートの歴史を変えた「作品」としてあらゆる美術の教科書に名を残しています。

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マルセル・デュシャン《泉》1917年 出典: Wikipedia Commons File:Duchamp Fountaine.jpg

アーティストやアート関係者およびアートを鑑賞する者は、当然そのくらいのことを理解しているという前提が現代アートにはあり、全くアートの歴史を知らない人はともかく、もしアーティストやアート関係者の口から「あの作家は自分で制作していないから作家とは呼べない」などという言葉が出てしまったら、こいつはアートのことを何も知らないのかと呆れられてしまいます。

自分で作ることが重要視されているとき、そこには常に「自分の技術」という問題が付きまといます。それはつまり自分の技術で表現できないものは作品として表現できないということです。artの語源が技術を意味するラテン語のarsであるように、もともとは個人の技術の幅が表現の幅に直結し、技術と芸術性は切っても切り離せない関係にありました。しかし、産業革命により、熟練の職人や一部の芸術家にしか作れなかったようなものが、一般作業員が働く工場で大量生産されるようになり、個人の技術力が持つ価値が相対的に下がり始めます。そしてデュシャンの登場により、自分で作らずに表現するという選択肢が新たに増え、その結果、個人の技術にこだわっていた時代よりも表現の幅や自由度は格段に広がりました。

例えば、最先端技術を用いて作品を作る「テクノロジーアート」という分野があります。テクノロジーアートは最先端の「技術」に重点を置いていますが、クラフトアートと違い、必ずしもアーティスト自身が最先端技術を用いて自分で制作を行う必要はなく、専門の技術者や科学者などに協力を依頼して作品を代わりに制作してもらうことも珍しくありません。当然ながら、最先端技術の中には高度な専門知識や特殊な設備が必要なものも多いため、制作には専門家の協力が不可欠です。自分の技術にこだわっていたら、作家本人が芸術家であり専門家でもあるという条件を揃えなければ最先端技術を用いた表現はできなくなってしまいます。もちろん、それでも芸術家に最先端技術に対する理解がなければ、技術を用いた新たな表現を生み出すことはできないので、テクノロジーアートには最先端技術を理解しようとする勤勉さが求められます。

それでは、作家が自分で制作しない理由が「自分の技術を超えて表現の幅を広げるため」だけかというと、もちろんそれだけではありません。「自分の作品によって生計をたてること」に重点を置いた活動を分類した呼称に「コマーシャルアート」というものがあります。コマーシャルというと日本ではテレビCMが真っ先に思い浮かんでしまいますが、コマーシャルは商業という意味で、要するにお金を稼ぐために作品を売ったり作ったりする行為のことを指します。そして私が見ている限りでは、制作会社への外注やアシスタントを雇っての制作をしている芸術家のほとんどは、作品で生計をたてているコマーシャルアーティストやそれを目指している人によってなされています。

なぜコマーシャルアーティストの多くは自分で作品を作らなくなるのか。アーティストアシスタントとして働いて彼らの実態を見るまでは、私もはっきりとはその理由がわかりませんでしたが、彼らの下で働いていると、次第にそうならざるを得ない背景が見えてきました。その一番の理由を一言でわかりやすく言ってしまうならば、「体は一つしかないが、一人で制作できる規模の作品だけではコマーシャルアーティストとして成功することが難しい」ということに尽きます。もちろん外注やアシスタントを使わず、一人で制作してそれでもコマーシャルアーティストとして生計をたてている人もいますが、ある程度、名前の知れた売れっ子作家になりたいならば、注目されている内にどんどん展覧会を開くことを求められます。数ヶ月に1回程度の展覧会で済むならばまだ一人でもどうにかなるかもしれませんが、それなりに売れている人となると月に2つ以上の展覧会を常に抱えていて、しかもそれがあちこちの国でというのが珍しくありません。コマーシャルアーティストとして活動している人の多くは、国境を越えて複数の展覧会を同時にこなし、それを何年も続け、その上で絶えず新作を発表するための試作や販売するための量産作品作り、そして次の展覧会のためにギャラリー、美術館、スポンサーとの交渉や助成金の申請書作りなどを行なっています。それはとても一人で捌き切れる仕事量ではなく、スケジュール管理や申請書作成、交渉など事務仕事を行なってくれるマネージャーや、自分一人では作りきれない作品を代わりに作ったり外注業者への説明や指示を出したりしてくれるアシスタントなどがどうしても必要になってきます。

また、もう一つ別の「規模」の問題として、アートマーケットや美術館では大きな作品が好まれるという傾向があり、巨大な作品を設計し、作り、展示場に搬入するとなると、必然的にチームを組んでプロジェクトとして制作に取り組むことが多くなります。

例えば、下のこの鳥の骨格標本の巨大な作品は、私がアシスタントとして制作に携わったもので、Andreas Greinerというドイツ人作家が GASAG Art Prize 2016 という賞を獲得し、”Agentur des Exponenten” と題してBERLINISCHE GALERIE MUSEUM OF MODERN ARTに展示した作品の一つです 2

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Andreas Greiner ”Agentur des Exponenten”

この作品は、まだ育ち切っていないまま死んでしまったブロイラー(食用鶏)をレントゲン撮影し、そのレントゲン写真を元に3Dイメージを作成、そして3Dプリンターで拡大印刷し、組み上げたものです。レントゲン撮影、3Dイメージ作成、3Dプリントはそれぞれ専門業者などに依頼し、組み立てる方法や自立させるための補助構造の制作などは、アンドレアスとエンジニアとアシスタントで行いました。最終的に完成したこの鳥の骨格標本は、台座の高さも含めると3階建ての建物に匹敵するほどの大きさになります。この規模の作品を一人で制作するのが困難であることは言うまでもありません。

アーティストはアイディアをコンセプトに落とし込み、まずはコンセプトシートとイメージスケッチ、模型というかたちでアウトプットします。それをもとにキュレーターやギャラリストと予算や方向性を話し合い、方向性が決まればエンジニアが具体的な設計図を描き、マネージャーが外注交渉やスケジュール管理を行い、アシスタントや専門業者が制作を行い、アーティストは要所要所で指示を行いながら最終的な展示や仕上げを行います。

建築に例えるなら、アーティストが意匠設計を行う建築家で、キュレーターやギャラリストが依頼主もしくは不動産会社、エンジニアが構造計算を行う構造設計者、マネージャーが現場監督、アシスタントや外注業者が下請けの大工や職人と考えると建築系の人には分かりやすいかもしれません。建築家は一人では家を建てられず、実際に家を作っているのは現場の大工や職人ですが、出来上がった建築は基本的に意匠設計を行なった建築家の手によるものだと見なされます。一人で制作できる規模ではなくなったとき、全ての指針となる図面を描いた人が創作者として扱われる、それと同じ現象が作品規模の膨れ上がった美術の現場でも起きていると考えてください。また、付け加えて言うならば、規模が大きくなった制作の現場で、創作者が実制作よりも指揮を執ることに専念する形態は、現代になって生まれたわけではなく、徒弟制などの形で古くから存在しているということも見落としてはなりません。

この二種類の「規模」の問題は、「自分の手で制作できる範囲(限界)を超えるため」の結果だと捉えることが可能です。「自分の技術」からの脱却も、「自分一人で作ることの限界」からの脱却も、その根底には表現の可能性を広げていくというベクトルが存在しています。

アシスタントや外注業者に任せて作品を制作している作家を批判する言葉が日本で聞かれるのは、良くも悪くも現代美術にまで至るコンテクスト(文脈:アートの歴史を踏まえた解釈)を疎かにしたまま、実制作のみに重点を置いた美術教育を行なっているため、美大、芸大を卒業した後もコンテクストという概念がないまま自分の手で手工芸的な作品を作り続ける人が多く、また、日本国内ではアートマーケットがほとんど成立しておらず、どうしても制作の規模が小さくなりがちなため、アーティストやアートに携わる人の間ですら、現代アートそのものやアシスタントなどを使って制作することへの理解がまだ十分に浸透していないという背景が強く影響しているように思います。

また、批判の中にはアシスタントを使用している作家への僻みが含まれている場合もあるでしょうが、「アシスタントに制作を任せている=作家が楽をしている」かと言うと、そうとは限りません。会社を経営したり人を管理する立場に立ったりしたことがある人ならば分かると思いますが、人を自分の思う通りに動かすことは容易ではありません。ましてや芸術作品の制作となると、相手に自分の意図やイメージを伝えて共有し、作品の完成形にまで反映させる必要があり、自分一人で制作する能力とはまた異なる性質の高い表現力が要求されます。そのような観点から見たとき、人を動かして何かを作り上げるということは紛れもない表現力の一つであると評価することができるのではないでしょうか。

以上のような理由で、現代アートにまで至るアートの基本的な歴史や、制作規模の問題から生じるアシスタントの必要性を理解している人たちの間では、自分で作っているかどうかということが問題として取り上げられることは基本的にありません。しかし、「あいつは自分で制作していない」という批判の全てがナンセンスであるかというと、そうとも言えないのが難しいところです。例えば忙しい作家がコンセプトともスケッチとも言えないほどのものをアシスタントに放り投げて、アシスタントが作り上げたものにもっともらしい説明を後付けし、お金や名声に物を言わせて作品を売っていることだってあるからです。そのような場合、その作品は本当にその作家の作品と言えるかどうかを問い直す必要があります。また、実際に私が見た例として、奴隷労働への批判を込めた内容の作品を作っている作家が、アシスタントに低賃金で健康被害の恐れもある過酷な制作作業をやらせていて、「まるで俺たちが奴隷だな」とアシスタントがボヤいているという皮肉な場面を目にしたことがあります。そのような場合、「なぜ自分で作らずに過酷な作業を他人に押し付けているのか、作品の内容と実際にやっていることが矛盾している」などの批判がなされてもおかしくはありません。コンセプトによっては「作家が自身で制作していること自体に価値がある」、もしくは「作家が自分で制作した方がより内容に深みが出る」といった場合があるので、その辺りの見極めが批判する上で重要になってきます。

あなたがもし、自分で制作をしていない作家の作品に違和感を感じ、批判をしたくなった場合、まずその作家が何故自分の手で制作していないのか、技術よりも表現を重視したからなのか、規模的に仕方なく誰かに任せる必要があったのか、コンセプト的に自分で作る必要はないのかなど、一通り考えを巡らせた上で批判してみてください。それでもなお、その作家が自分で制作していないことが単なる手抜きだったり作品の質を低下させる要素になっていると感じてしまったりするなら、「この作品をちゃんと自分で作らないのはおかしい」と批判してもナンセンスにはならず、説得力や重みのある批判となります。

あまりに見当外れな批判は、批判した側が返って批判されるとなると、批判することを尻込みしてしまいそうですが、的確な批判はアートの発展に寄与するものとして賞賛されるのが現代のアートの世界です。批評や感想には正解があるわけではなく、基本的なアートの歴史と作品の背景をある程度押さえていればそれほど見当外れな意見になることはあまりないので、恐れ過ぎずにあなたなりの意見や批判をしてみてください。また、読み込むべきコンテクストがあまりに膨大になり過ぎている、コンテクストにこだわり過ぎることで返って表現の幅を狭めているなどの現代アートの構造自体への批判もあり、アート関係者でない人がコンテクストを読み間違えたり知らなかったりして批判されても気にする必要はありません。ただ、好きか嫌いか、美しいか美しくないかなどの感想は、共感してもらえるかしてもらえないかという反応だけで終わってしまいますが、あなたがアートの歴史を把握した上で出した作品に対する解釈や批評が的確だと周りから認めてもらえたとき、あなたは教養を持つこと、そして現代アートを理解することの面白さを実感することができるはずです。

1 マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)

1887年フランス生まれ、1968年逝去。ニューヨーク・ダダの中心的人物であり、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人。有名な《泉》(または噴水)と呼ばれる作品の作者と考えられており、また、レディ・メイドという既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのものを作品として数多く発表している。

2 アンドレアス・グライナー(Andreas Greiner)

1979年ドイツ生まれ。ベルリン芸術大学卒。薬学や生物学にも精通しており、微生物を用いたり生物をモチーフにした作品などを多数制作している。日本では2016年のTOKYO WONDER SITE International Creator Program で出展しており、2020年の横浜トリエンナーレにも出展予定。 URL: http://www.andreasgreiner.com

参考文献

庄子 幸子、「デュシャン《泉》の芸術哲学的考察 - ダントーに沿いつつダントーを超えて -」、 『現代アート事典』所収 美術手帖編、美術出版社、2009年。