ファンタジーのすすめ

現代は、リアルに満ちている。情報そのものは、リアルかどうか、定かではないが、それはさておき、朝起きて、知り合いの生活の様子が届いたり、身近なことから世界的な問題まで様々なニュースが飛び込んできて、その処理に思いのほか多くの時間と朝の新鮮な意志力を削がれていく。中には周りの情報が気になって、ひがんだり、一日中心配事を引きずったりするケースもあるかもしれない。そんなこと気にしなければ良いのだが、否応なしに情報が飛び込んでくるのだから仕方ない。それが現代の暮らしである。

そのせいで、生活は誰かのリアルに満ちていて、その真実の背景や経緯よりも、その瞬間の、情報(結果)の瞬発力によって多くの判断が下されている時代である。天気予報やGoogleマップもそう。自分の大事な1日のための意思決定の大部分をAIによる判断に委ねていることに気づいていない人も多いのではないか。そうやって貴重な時間や判断能力が無意識のうちに失われていく時代だからこそ、僕たちは一度立ち止まって想像力を発揮する必要があると思う。イマジネーションを持ってして、初めて夢のある未来が描けるし、現実の課題を突破する策が生まれてくるというものではないだろうか。

とはいえ、日々の建築の設計業務も言わずもがな超現実の中で密度高く進んでいる。製作のための納まりを緻密に設計したり、コストの調整で電卓をひたすらはじいたり、役所や申請機関と法的な協議をしたり、地道な作業を積み重ねる毎日である。それでも、立ち上がった建築がその場所のオーラをまとうかどうか、何か新しい価値観を提示する空間となるかどうか、人々の心を突き動かすかどうかは、壮大なイマジネーションによって導かれるべきであるし、そうであるように常に努めている。先代の建築家たちもその壮大なイマジネーションによって時代を切り開いてきた。プロジェクトの最初に敷地に行くときはいつも、そこには何もない。その何もない土地に行って、ヴァナキュラーな空気を肌で感じながら、ここに何がどう建つべきかを思い描いたとき、その瞬間にその物語が始まっている。

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夢枕獏『シナン』

ここでは、ファンタジーのすすめと題して、『シナン』(夢枕獏著)という小説を紹介したい。これは、2004年に中央公論新社から出版された小説で、16世紀のトルコの建築家「ミマール・コジャ・シナン(訳:偉大な建築家・シナン)」を主人公とし、著者が史実をもとに構想、盛期オスマントルコ帝国を舞台とした壮大な物語である。

シナンは24歳の時にはじめて訪れたイスタンブールで最大のジャーミー(モスク)、ハギヤ・ソフィアに不完全さを感じ、神と建築についての思索を深めていく。そしてハギヤ・ソフィアを超える巨大なジャーミーを建設することに挑戦した。不思議なことに、前述した「プロジェクトの初めに何もない敷地でそこでの建ち方を思い描く」という感覚が、この小説の中全体にわたって感じることができる。シナンという建築家が、スルタン(皇帝)や軍官に依頼され、何もない敷地にジャーミーや橋を立ち上げる。そのイマジネーションと熱量によって、当時には類を見ない革新的な大空間や工作物を次々と生み出していき、軍に勝利を呼び込み、新しい文化を生み出していく。

1529年、シナンは特命を受け、絨毯商人に扮してイスタンブールからヴェニスに向かう。その船の中でフィレンツェの彫刻家ミケランジェロと出会う。シナンはミケランジェロに問う。「芸術家にとって大きさとは何でしょう?」と。石の巨人と称されるミケランジェロはフィレンツェの象徴ともいえる巨大なダビデ像を彫った男であり、ローマのシスティーナ礼拝堂の1,000m2 に及ぶ天井に、聖書に描かれた情景を、独力で描き上げた男。「大きさというのは、芸術家にとって、実に興味のある問題です」「もっとも、ただそれが大きなだけの像、大きなだけの絵では意味がありませんが」。ここでは「大きさと作品の価値」について、大きくても作品の価値がなければ意味がない、と語られている。しかしシナンの質問の本意はこうだ「神には大きさが存在するのか」と。つまり「大きなものには、大きな神が宿るのか」ということだ。ミケランジェロは言う「きみは、大きい神と小さい神が存在するといってるわけではないのだね」ー中略ー「聖(ハギヤ)・ソフィアか!?」「まさか、きみは、千年越えられなかったあの大聖堂を超えるものをー」。

こうしてハギヤ・ソフィアを超えていこうとするトルコの偉大な建築家の壮大な物語が描かれる。

最近、プロジェクトで地域に入り始めて感じることは、地域の問題は飽和状態となっていて、自治体も現地の企業も手を尽くし切ってイマジネーションが枯渇してしまっているということ。公共・民間にかかわらず、みんなの大事な大きなことが一人の小くて無茶苦茶な妄想から始まっていいと思う。そうでなければスレイマニエ・ジャーミーは実現しなかった。その意味でこの「シナン」という小説は、この厳しいリアルの時代に、想像力を膨らませるいいアイテムになると思うので、是非お勧めしたい一冊である。この先のいい時代を作っていくために、ぜひ今一度ファンタジーを讃えたいと思う。