他者との密接なコミュニケーションや共存について考える
倉敷安耶個展「おまえの骨が軋むとき」がARTDYNEで2025年2月1日(土)から2月16日(日)まで開催される。倉敷は主に転写技法を用いた平面作品を中心に、儀式的なインスタレーションやパフォーマンスなど複数のメディアを取り扱い、宗教・ジェンダー・生と死・身体などの巨視的な領域から、職業・家族に至る身近な領域まで、他者との密接なコミュニケーションや共存の模索、あるいは融合などを試みる作家。東京を拠点に活動している。
アーティストステートメント
食卓とは、最小単位の、一時的な共同体である。誰かと向かい合って食事をするとき、この卓上の距離に我々の関係性は広がっている。食事をするということは食材という他者の死骸を経口摂取し自身の体内に取り入れること。死は肉体を根源とし、生のために我々は他者を肉体に取り込み血肉とし、他者と食卓を共にすることによってエロスの喜びを分かち合う。
ときに葬儀の際、焼かれた骨を皆で取り囲み箸で拾うときに食卓のようだと思った。故人が焼き上がるまで皆で共に食事をして待つ、それはまるで晩餐の儀の中で主菜を待つようである。現に葬送と食事の関係性は深く、多くの場合の葬儀には共食行為や死者に対して供物を捧げるなど食に関する行為が見受けられる。
ジャック・デリダ曰く「喪─何者かが失われたときに、その悲しみの喪失に対処すること─」こそが決して「自分だけで食べないこと」を可能にするという。失われたものを自分の中に受け止め直していくメランコリーなプロセスは、自らのうちに他者を担い、体内化し、受け入れることで「他者と共に食べること(生きること)」を考えることができる。
レヴィ= ストロースの「料理の三角形」によると調理方法は「生のもの」「火を通したもの」「腐敗(= 発酵) させたもの」の主に3 つの状態に分けられるというが、私は葬儀方法も同じ構造を持つと考える。生きている人間を「生」の状態とすると、死んだ人間は大まかには加熱か腐敗によって葬られる。火葬、海葬などの散骨、自然葬など。鳥葬もまた腐敗によって自然に変える形式の一つである。
(ときに恋人たちの晩餐の夜、愛の囁きも前戯も口を発端とする。それはいみじくも心身に他者を摂取する行為である。)他者との繋がりは口先から始まる。 自己の死は他者に死を知覚されることによって、初めて「死」となり得る。
自分の死さえも他者によって成り立っている。だというのに、その人の死は、その人の死でしかなく、私の肉体はどこまでいっても私だけの肉体でしかなかった。倉敷安耶
倉敷安耶
一貫して、肉体という個別の物質、あるいは付属するカテゴライズによって絶対に断絶された孤独な存在のひとつであるという自覚を持ち、他者との距離について制作を行ってきた。自己と他者との関係には様々な軋轢が生じ、孤独な課題を抱えている。 作品はそれ自身が私にとっての信仰であり、断絶されたこの身で他者と関係性を紡ぐ架け橋で、あるいはときに軋轢によって生じた傷を手当てし生き抜くためのケアである。宗教・ジェンダー・死・身体等の巨視的な領域から、職業・家族等に至る身近な領域まで、そこに伴う共同体と、生き抜くため行為であるケアをモチーフにし、転写技法を用いた平面作品を主軸にした他、儀式的なインスタレーションやパフォーマンスなどを用いる。
仏教画の九相図、そのモデルに引用された小野小町、さらには説話と化しイメージが一人歩きしたことによって個人の人格を無視し、押し付けられた罪を背負った点が小町と共通するマグダラのマリアをモチーフとした《九相図》や《互いのための香油塗り》、名画等の女性の身体にアダルト画像をコラージュした《Transition》、箱形の支持体を持つ作品を墓や骨壷に例えた《Grave》《Bury》、祭壇のような食卓のインスタレーション、儀式的な飲食を伴うパフォーマンスなど。
倉敷安耶個展「おまえの骨が軋むとき」開催概要
会期 | 2025年2月1日(土)~2月16日(日) |
時間 | 12:00~19:00 |
会場 | ARTDYNE |
休廊日 | 月火水 |
URL | https://tinyurl.com/5dya3ebc |