展覧会「Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut(フランソワ・トスケル:アヴァンギャルド精神医学とアール・ブリュットの誕生」後編
前編に続き、ニューヨークのアメリカン・フォーク・アート美術館で開催中の「Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut」について、本展の解説とともに紹介する。
スペイン戦争で政治的弾圧を受けたカタルーニャ人の精神科医フランソワ・トスケルはフランスに亡命し、サン・アルバン精神病院で「制度精神療法」を発展させた。病院内の壁を取り壊し、患者、医師、看護師などの病院スタッフの制服を止め、地域住民、修道女、音楽家、作家、画家らと集団的でありながらも専門性の低い関係を築き上げていく。患者は病院の治療方針に関する全体会議にも参加し、劇場、図書館、映画館、印刷機などを利用しながら、自らが運営するクラブにより、治療に不可欠な労働や社交行事、そして創作活動を行った。
そうして患者でありアーティストらの作品は、施設の外に広まっていく。1944年にフランスの芸術家ジャン・デュビュッフェは、パリでオーギュスト・フォレスティエの作品を目にする。その出会いは彼にとって啓示的なものとなり、西洋美術の規範に軽視されている芸術家の作品を収集する必要性を確信した。
デュビュッフェとアート・ブリュットの発展
その翌年の1945年に、デュビュッフェは作品を購入しようとサン・アルバン精神病院を訪れた。アール・ブリュット構想のため患者の作品を収集したいと申し出たが、医師であったトスケルは当初、デュビュッフェを「患者の精神治療の過程で生まれた副産物を商品化しようとする美学者」と見なし、懐疑的に受け止めた。患者を労働や社会的交換に戻すための治療であった以上、トスケルはカウンター・カルチャー的な感性には関心を示さなかったという。
20世紀初頭は、西洋美術の規範を再考する運動があり、児童芸術、ヴァナキュラー表現、非西洋文化圏の作品などと共に、「精神病理学的芸術」は西洋美術の美学や伝統を再評価するきっかけとして機能していた。こうした背景のなか、デュビュッフェがアール・ブリュットを構想した理由の一つとして、展示では以下の説明があった。
「ドイツの精神科医ハンス・プリンツホルンは著書『 Artistry of the Mentally III 』(1922年)の中で、施設に収容された人々の作品にある内なる創造的衝動について記している。医学の分野では、このような作品は診断材料として使われ、精神状態との関連性を探るための美術館を持つ病院もあった。しかし、このような精神科患者による創造性の源泉への関心は、多くの訓練を受けた芸術家たちが彼らの芸術的革新を流用する一方で、これらの作品の背後にある歴史は抹消されることが多かった。
ジャン・デュビュッフェが1945年に始めた”芸術文化に汚染されていない”人々の作品を探す取り組みは、プリンツホルンの遺産を土台にはしているが、しかし彼は、当時パリのサント=アンヌ精神病院が提唱していた「精神病理学的芸術」という概念を軽蔑し、正常と逸脱という誤った二項対立のもとに、こうした人々を隔離することに反対した。
そしてアール・ブリュットの概念によって美術史の規範を拡大し、創作者の現実認識の特異性を強調することで、こういった作品を精神医学の汚名から切り離すことを目指した。」
デュビュッフェの作品と、彼が収集したアール・ブリュット作品の写真。
ヨーロッパのアール・ブリュット
展示では、サン・アルバン精神病院の患者の作品以外にも、ヨーロッパのさまざまなアール・ブリュット作品を見ることができる。その一部を展示内の解説とともに紹介する。
フランスのアルザス地方のロウファッハ精神病院の患者のウジェーヌ・ベドーは、機関車の運転手であった。第一次世界大戦の大虐殺に衝撃を受けたペドーは、ハーグ砲を膣洗浄器に見立て「戦場で人が殺されるのを防ぐ 」ために避妊を提唱したという。彼は1938年の医学論文「A Chronic Delusional: His History, His language. Diagnostic(慢性的な妄想:彼の病歴と言葉。診断法)」で題材になる。ベドーによるドローイングとコラージュによるこの作品は、巨大な紙のフレスコ画の中心部分だ。
スペインからの難民ジョアクィム・ヴィセンス・ジロネラによるコルクの彫刻に、デュビュッフェは感嘆したという。1948年に、トスケルの同志であり精神科医のジョゼップ・ソラネスは、亡命や国外追放の結果生じる症状には特有の治療が必要であると考え、デュビュッフェはその年にジロネラを含む3人のスペイン難民の作品を展示し、亡命運動について考察した。
フランスの作家アントナン・アルトーの作品もあった。アルトーは1943年から1946年の間、ロデーズ精神病院に収容されていた。当時、トスケルは話すことができない、または話さない患者の声を聞くことに評価を得ており、ほとんど喋らない状態であったアルトーに会いにロゼールに行き、一緒にチェスをしたという。
アルトーによるデュビュッフェの妻の絵。
デュビュッフェが描いたアルトーも横に飾られていた。
展示内では割愛されていたが、1971年にデュビュッフェは収集した5,000点もの作品をスイスのローザンヌ市にすべて寄付し、現在そのコレクションはCollection de l'Art Brut(アール・ブリュット・コレクション)という美術館にある。米アート誌ハイパーアレルジックによると、デュビュッフェは既成のブルジョワ的な文化施設の伝統を敬遠し、「美術館」ではなく「コレクション」と呼ぶことを好んだという。宗教的・政治的迫害を受けた人々を受け入れてきたスイスの歴史から、デュビュフェはスイスを「反抗的で慣習に従わない考えに寛容である国」であり「避難所」とみなし、自身のコレクションを寄付したとのことだ。
今日、アール・ブリュットは国際的な美術館のコレクションとなり、美術市場では買い手が後を絶たない。しかし、展示では評価基準に論争がないわけではないということも指摘している。病院での制作状況、患者の芸術的地位や、作品の所有権についてまわる疑問なども依然としてあり、デュビュッフェとトスケルの立場の違いが生んだ緊張関係然り、現代にも続く議論だと喚起されていた。そして、アメリカの動向へと展示は続く。
アメリカの精神病院の歴史と患者の作品
アメリカの精神医療の歴史は、1954年に最初の抗精神病薬ソラジンが登場したのを皮切りに、ロボトミー手術や電気けいれん療法、インシュリンショック療法などの治療は衰退し、その後10年間で「脱施設化」へ向かったとある。背景には財政の削減(精神科は対象になりやすい)、治療薬の普及、人権的観点などがあり、今日のアメリカには精神病院のシステムは事実上存在しないという見方もあるそうだ。かつて存在した精神病院も、政治・経済的問題に場当たり的に応ずるもので、残酷であった。結果的に、政府は精神病院ではなく、代わりに地域に根ざした精神保健サービスに資金を提供し、1965年までには、国の精神病院に関連する費用の大部分を州や地域保健組織に移した。
展示内にあったこのスーツケースは、そういった歴史を物語っていた。
ニューヨークのウィラード精神医学センターの患者であったローレンス・モカという人物のものだ。1995年の同病院の閉鎖時、廃墟と化していた病院の屋根裏から、元患者の数百個のスーツケースが発見されたという。これらは病院に到着した時に放置され、その後も開封されず忘却された。1920年代までに同病院の患者の半数がそうであったように、モカも清掃員と窓拭きの仕事に就いていたが、他の患者と揉めたことで墓掘り人という孤独な職を与えられた。そして1968年に亡くなるまで、20年以上に渡り600人を超える患者の墓を掘り続けた。彼は自分が管理していた墓地に埋葬された。
以下の作品らは、そのような、かつてアメリカに多く存在していた精神病院の患者によるものだ。
バージニア州ラドフォード、セント・アルバンズ療養所は、当初、屋外レクリエーション、屋上庭園、農場併設など、自由なコミュニティの精神病院として構想されたが、1940年代半ばには施設は過密状態となり、非人道的な実験治療が実行された。これは患者によるドローイングだ。
マルティン・ラミレスはメキシコから移住し、その後カリフォルニアの精神病院に強制入院させられた。彼の作品には聖母マリアの描写があり、それは二度と会うことのなかった妻を寓意していると指摘する学者もいるそうだ。
ペンシルベニア州の旧ノリスタウン州立病院に入院していた無名の患者による木彫作品は、環境が患者の心に与えた影響を示唆しているという。
ニューヨーク州ビンガムトン州立病院の患者であったジョセフ・ロスの刺繍作品は、アメリカの精神科医カークブライドが提唱した「カークブライド計画」を採用した建物が描かれている。20年以上にわたりロスは地図と文による作品を作り、そこには最後の審判の黙示録的な情景と、その中にいる自身についての記述があるという。
ニューヨークのウィラード州立病院の患者であった日本人のマサアキ(ジョージ)・イワモトの作品には、一貫して「Amerika」や「Iwamoto Arts, Made in Japan」などの出身地への言及がある。彼は将来のために作品を商標登録し25,000円の価格をつけたと記載があった。
テネシー州のイースタン州立の、通称MYRLLENという患者は、拘束や独房などの過酷な治療で悪化をたどった。治療がうまくいがず、医師は彼女に裁縫をすることを許可した。当時、精神科は統合失調症の治療薬として抗精神病薬を使用するようになり、彼女はいち早くソラジンを投与されたアメリカ人の一人だった。薬物療法は幻覚の激しさを著しく鈍らせたが、同時に裁縫への興味を永久に失わせたとある。
1970年代になると、患者は電気ショックなどの残酷な治療や、自分たちの生き方やアイデンティティが病気として分類されることへ反発し、戦い始める。1973年にアメリカ心理学会は、同性愛を精神障害の分類から解除した。その後、1979年の米国精神障害者家族連合会(NAMI)の結成に加え、治療に芸術を取り入れる団体が次々と誕生していく。そして精神医療の原則が生化学的な治療へと激変し、1988年にフルオキセチン(プロザック)が最初の選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)として米国市場に登場する。
展示では、このようなアメリカの精神治療の歴史に対し、トスケルが実践した「制度精神療法」がいかに斬新であったか、また、その新たな視座からアメリカが見過ごしてきたユートピアが浮かび上がると、未来への期待が示されていた。
フランスの芸術家ジェラール・ヴュリアミが描いたサン・アルバン精神病院の患者。
フランスの詩人ポール・エリュアールと妻のヌッシュ、またトスケルの元でサン・アルバン精神病院のディレクターを努めた精神科医リュシアン・ボナフェの写真。
1947年の夏にサン・アルバンで撮影されたトスケルと妻のエレーヌ。
本展には、この他にも見応えのある作品や資料がたくさんあり、人間の精神についてのみならず、現代の芸術のあり方や、日本の精神医療に関する課題などを終始考えさせられた。また、アメリカの精神医療の歴史、第二次世界大戦時のナチス政権による優生思想、トスケルのフランスへの亡命、またデュビュッフェとスイスの関係などから、国家とは何であるのかを改めて現代に問う内容でもあった。本展は8月18日まで開催されているので、NYに来る機会があれば、ぜひ立ち寄ってアール・ブリュットの作品の数々と、人間の精神に生涯を捧げたトスケルの遺産に触れてほしい。
参照サイト: Collection de l'Art Brut https://www.artbrut.ch/
Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut 展示情報
会期 | April 12, 2024〜August 18, 2024 |
時間 | Wednesday–Sunday: 11:30 am〜6:00 pm |
会場 | 2 Lincoln Square Columbus Avenue at West 66th Street New York, NY 10023 |
入場料 | 無料 |
URL | https://folkartmuseum.org/ |