展覧会「Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut(フランソワ・トスケル:アヴァンギャルド精神医学とアール・ブリュットの誕生」
現在、ニューヨークのアメリカン・フォーク・アート美術館では「Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut(フランソワ・トスケル:アヴァンギャルド精神医学とアール・ブリュットの誕生」が開催されている。アール・ブリュットを誕生させたカタルーニャ人の精神科医フランソワ・トスケルの遺産を検証する展示としては、アメリカ初となる。
本展は、2021年から開始したフランスのレ・ザバトワール現代美術館、スペインのバルセロナ現代文化センター、マドリードのソフィア王妃芸術センターとの共同企画によるもので、ニューヨークでの本展は最終地点となる。トスケルが20世紀のフランスの医療や芸術に与えた多大な影響と、精神と芸術の「治療」に関連するヨーロッパの芸術家の作品、またアメリカにおける精神医療の歴史と関連作品をも含む、多岐にわたる展示内容となっている。
Art Brut(アール・ブリュット)はフランス語で「生の芸術」を意味し、英語ではアウトサイダー・アートと呼ばれている。その考案者であるフランスの芸術家ジャン・デュビュッフェによる定義は以下だ。
「アール・ブリュットは芸術文化に触れていない人々による作品のことであり、そこでは知識人のような模倣はほとんど、あるいはまったく行われず、作者は、古典芸術や流行の芸術の決まり文句からではなく、自らの深みからすべてのもの(主題、素材の選択、移調の手段、リズム、描き方など)を引き出している。ここにあるのは、純粋で、生々しく、作者自身の衝動により、そのすべてにおいて刷新する芸術的営みである。」
作者については、「独学で学び、反骨精神を持ち、集団的な基準や価値観、他人の評価を無視する者。そして衝動に突き動かされるままに自らの宇宙を創造する、社会の片隅にいる人々でもある」と言及している。
アール・ブリュットは、芸術機関を批判し、芸術文化に汚染されていない純粋なアートを求めたデュビュッフェと、精神科医であるフランソワ・トスケルの病院を「治療する」という願望が出会ったことで誕生した。しかしデュビュッフェの活動や、アール・ブリュットに比べ、トスケルの功績はあまり広く認知されていない。アール・ブリュットが誕生する前に、トスケルはその表現が生まれる場を作った。
第二次世界大戦中、ファシズムによる弾圧や迫害を受けながら、トスケルは病院で医療と文化に革命を起こした。21世紀になっても、残念ながら独断的で抑圧的な政治や権力、戦争は一向になくならない。アール・ブリュット、アウトサイダー・アートは今や世界中で楽しまれるようになったが、その誕生の背景にはトスケルのレジスタンスがある。フランスの精神科医リュシアン・ボナフェによると、その実践は、医学的な「精神医学の非人間性」への抵抗であるということと、政治的な「ナチズムへの抵抗」でもあったということを理解しないといけないという。
本展を中心に、トスケルやアーティストたちの物語を紐解きながら、アール・ブリュット誕生の軌跡をまとめてみた。その功績を振り返ることで、医療だけでなく、文化や芸術の存在意義は何であるのかを、改めて学ぶことができるのではないだろうか。

Exhibition view of “Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut” at American Folk Art Museum, New York
政治活動から精神医学へ
フランソワ・トスケルは1912年にバルセロナに生まれた。大学で精神医学を専攻し、そこでフランスの哲学者・精神科医のジャック・ラカンの著作に触れる。それまでのフランスの精神医学の主流とは異なり、精神病は純粋に生物学的なものではなく、社会的要因との関連で診る必要があると主張したラカンの思想から、トスケルは生涯を通じて影響を受けることになる。
また、トスケルは学生時代から政治活動に積極的に関わり、POUMというマルクス主義統一労働者党の創立メンバーのひとりでもあった。このグループは権威と官僚主義の政策に反対し、特に文化による意識改革と民主主義を推進していた。この政治活動がトスケルの精神医学を形成することになる。
1939年、スペイン戦争でドイツの支援を受けたフランコ国民党政府による弾圧や爆撃により、カタルーニャ人と共和主義者をはじめとする45万人がフランスに亡命した。トスケルもそのうちの一人であった。フランスは当初難民を受け入れるとしていたが、状況は一変し、難民キャンプは強制収容所と化した。飢えや病気で亡くなるもの、発狂するものなど、収容状は惨憺たる状況であったという。トスケルは収容所内に精神科の診療所を設立し、自身の医療理論を元に、コンサートや演劇、出版、グループ・セラピーなどを立ち上げ「集団を治療する」試みを行った。
精神病院を”治療”する「制度精神療法」
この活動がフランスの医学会に知れ渡り、1940年に、中央フランスの人里離れた村にあったサン・アルバン精神病院にトスケルは雇われた。第二次世界大戦中、フランスはドイツの占領下となり、優生思想によって精神病院では4万人の死者が出た。他国のように強制安楽死はなかったが、援助の停止など意図的な政策により、患者は飢餓などで死に至った。トスケルと医療チームは戦争を生き延びることを第一優先に、852人の患者を救うため地元の村人から必死に食料を集めた。
そしてこの病院でトスケルは「制度精神療法」という治療法を確立していく。これはトスケルによる病院そのものを治療するという概念と、患者、病院スタッフ、看護師、医師、そして地域住民を巻き込んだ治療、文化、政治的な実験である。まず、トスケルは「疎外」という概念に着目した。精神的状況だけではなく、社会的状況の疎外。疎外される精神状態の狂気と、患者が閉じ込められ孤立する社会的状況、同様に疎外される精神病院をどう治療するべきか。トスケルは施設そのものを「病める身体」として治療する必要があると考えた。
トスケルは、個人と社会の離反と戦う構造を作るため、施設内の壁を取り壊し、患者を閉じ込めることをやめた。そして、患者、病院のスタッフ、看護師、医師が、その習慣的に占めている社会的地位から「疎外」するために、制服の着用を廃止した。そして地域住民や、修道女、音楽家、作家、画家らと協力して、より集団的でありながらも専門性の低い関係を作り上げた。収容所のような要素を廃止する目的の他に、医療スタッフに患者とその病気の特異性を考えさせるためでもあったという。
トスケルは、こういった改革への中心組織として、患者が運営する「クラブ」という組合を作った。そこで患者は自ら、食事、演劇、音楽鑑賞、ダンス、スポーツ、パーティー、サーカス、遠足などを企画・運営し、治療に不可欠とされる社交行事や労働などを行った。
患者は、劇場、図書館、映画館、印刷機なども利用でき、また、陶芸、絵画、木工、エルゴ・セラピーの実践や、作業場の運営、そして印刷工房を使って「Trait d'union」という雑誌も発行した。この雑誌には理論や文学、詩的な文章に加え、絵、レシピ、広告、手紙などが掲載されていたという。トスケルは読むという行為は患者を広い世界と結びつけると考え、また、陶芸、絵画、木工などの活動は精神治療に役立つと信じていた。病院には写真現像室があり、患者が地元の村人のフィルムを現像したり、また地域住民のための上映会も開催した。クラブの雰囲気は活気あるカフェのようで、皆がいつも会話していたという。このような自主管理制のもと、非階層的で、有機的で、徹底的に民主的であったクラブは、多くの点でPOUMを彷彿とさせた。
そして患者は、医師と一対一の精神分析セッションを受けながらも、治療方針に関する会議にも参加した。医師をはじめとする病院のスタッフと患者が参加する全体ミーティングは、誰もが哲学的、個人的な話題について発言するよう招かれていたという。これは、権威、ヒエラルキー、習慣、地方の封建主義、コーポラティズムと闘うために、トスケルにとって非常に重要な要素であった。
トスケルにとっては、何もかもが議論の対象だったのだ。民主主義のためだけではなく、相互尊重を学ぶため、患者は、滞在やケアの条件、交流、表現などの権利について何でも発言できなければならないと考えた。
このモデルは、その後のフランスの医学界に多大な影響を与えた。フランスの著名な精神科医ジャン・ウリは、1948年から1950年の間、サン・アルバン精神病院で働き、トスケルの仕事からヒントを得て、1953年に有名なラ・ボルド病院を設立する。この病院で、精神分析医・哲学者のフェリックス・ガタリが勤務し「分裂分析」を実践した。この概念は哲学者のジル・ドゥルーズの共著『アンチ・オイディプス』(1972年)で登場する。また、精神科医であり反植民地思想家でもあったフランツ・ファノンも、1952年から53年にかけてサン・アルバン精神病院で働いていた。1954年にアルジェリア戦争が勃発し、その後、病院の職を辞し、民族解放戦線(FLN)に身を投じアルジェリア独立運動で指導的役割を果たすこととなる。他にも、シュールレアリスムの詩人ポール・エリュアールは、1943年にサン・アルバン精神病院に疎開し、詩集『Souvenirs de la maison des fous』を執筆している。エリュアールにとって、精神医学とシュールレアリスムは、世界の不条理に対抗して狂気を再び人間にするという目的を共有するものであった。また哲学者のジョルジュ・カンギレムも、1944年にサン・アルバン精神病院に滞在している。カンギレムの著書「正常と病理」にもあるように、科学における客観性の限界、規範性、診断の社会的構造などへの関心の点で、カンギレムとトスケルの思想は共鳴していたという。サン・アルバン精神病院の医師、芸術家、哲学者たちは、それぞれ異なる背景を持ちながらも、政治的な実践としての精神医学のビジョンを深く共有していたのだ。
サン・アルバン精神病院のアーティストたち
そのような型破りのトスケルの試みのなか、サン・アルバン精神病院でオーギュスト・フォレスティエ、マルグリット・シルヴァン、エマーブル・ジャイエなどのアーティストが次々と誕生していく。
後のアール・ブリュットで代表的なアーティストとなるフォレスティエは、1940年にトスケルが病院で働きはじめた頃からすでにその頭角を表していたという。本展は、そのフォレスティエの作品の船から始まる。

Auguste Forestier (1887-1958, France)
Untitled (Boat) 無題(船)
1935-1949
Wood, fabric, metal, leathers, nails

Exhibition view of “Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut” at American Folk Art Museum, New York
1887年にフランスの農家に生まれたフォレスティエは、いつも電車に夢中だったという。何度も家出をして無賃で電車に乗り、その度に警察につれ戻された。1914年のある日、電車が石を砕くところを見たいと思い、レールの上に小石を積み上げ、列車の脱線事故を引き起こしてしまう。獄中で彼は木製のメダルを彫り、鉄道会社から感謝の印として贈られたと語っていたという。その後サン・アルバン精神病院に収容され、死ぬまでそこで過ごした。フォレスティエの放浪癖は絶えることはなく、1914年から1923年にかけて5回脱走する。ジャン・ウリは、フォレスティエの作品には常に旅人の足跡が残っていると語っていた。フォレスティエは施設内でメンテナンスの仕事を請け負いながら、廊下の一角に小さな工房を作り、そこでパン用の包丁を使って廃材を掘り、布や皮の切れ端、メダル、ゴミ箱から拾ったものなどで船、荷車、翼や魚の尻尾がある怪物、人物や動物、擬人化した像や、人と動物が変態したオブジェを作った。旅に出られないフォレスティエは、海を見ることはなかった。代わりに船を作り、それを売買することで自分の船に旅をさせた。それはトスケルがサン・アルバン精神病院の屋上に立ち、フォレスティエの船を頭に掲げた写真にも象徴されている。ポール・エリュアールは、1943年にフォレスティエと出会っている。その後エリュアールはパリに戻り、パブロ・ピカソとレイモン・ケノーにフォレスティエの彫刻を見せた。地域住民だけでなく、施設内のスタッフなどにもフォレスティエの作品は人気で、たくさんの人が買っていたという。どこかトーテムポールを彷彿とさせるような呪術的でもあるフォレスティエの彫刻は、その独特な表情や佇まいにより展示でも多くの人を魅了していた。

Romain Vigouroux (active mid-20th century, France)が撮影したトスケル。オーギュスト・フォレスティエの船の作品を頭上にかかげ、サン・アルバン精神病院の屋上に立つ姿。
1947
他にもギャラリー内では、マルグリット・シルヴァンの作品も際立っていた。ボロ布の切れ端や、ほぐして得た糸を使いながら、洗練された色彩感覚と絵画的構図が際立つ緻密な刺繍の数々は圧巻であった。
フランスのロゼール地方に生まれたシルヴァンは、41歳の時に精神分裂病を発症し、サン・アルバン精神病院に入院する。その13年後に絵を描き始める。主に子供が主役の楽しい家庭の情景を水彩画と刺繍で制作した。モデルもなく、下絵もせずに制作したというが、そう思えないほど、魅惑的な情景が迷いなくはっきりと具現化されていた。幻覚に悩まされ錯乱状態に陥ることが多くなり、1955年にすべての芸術活動を停止した。

Marguerite Sirvins (1890-1957, France)
Landscape with Boats, Hunters, and Animals ハンターと動物と船のある風景
c.1944-1955
レーヨン糸による刺繍

Exhibition view of “Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut” at American Folk Art Museum, New York

Marguerite Sirvins (1890-1957, France)
Untitled (Large Blue Vase and Figures) 無題(大きな青い花瓶と人物)
1944-1957
キャンバスに絹糸刺繍
また、エマーブル・ジャイエの作品は、精神的なものが深く反映されており非常に興味深いものであった。ジャイエはパリの肉屋で働いていたが、1934年頃、精神のバランスを崩し始め、自殺未遂の末、サン・アルバン精神病院に収容される。そして学校の教科書や包装紙、ボロ布に作品を書き始める。彼の作品には特徴があり、そこには対称性が存在し、そして常に男性的、女性的な形式を拒否するような表現があるという。ジャイエは、施設の内外を自由に歩きながら、日刊新聞などに周辺地域の小さな出来事をクローズアップした文章を書いた。散歩しながらメモを取り、日記的な眼差しとともに、性別に捉われない文章を書いた。そして地名や病院のスタッフ、道路標識や肖像画に至るまで、彼は身の回りの生者と死者の名前を集めていたという。

Aimable Javet (1883-1953, France)
Les sciences des eaux eonds baptismeaus cé de faire tomber les cheveux/La Vierge Marie Martel de Tilly s/ seuilles 洗礼水の科学とは髪が抜けること/聖母マリアーの閾値
c. 1941
包装紙に鉛筆、インク、チョーク

Aimable Javet (1883-1953, France)
Illustrated text of four profiles (double-sided) 4人のプロフィールのイラストとテキスト(両面)
1949
インク、色鉛筆、紙

Aimable Javet (1883-1953, France)
Jean Leplay, Jeanne Leply ジャン・ルプレイ、ジャンヌ・ルプレイ
July 1949
グラファイト、インク、色鉛筆、96ページの学校用のノート
そしてトスケル自身の作品もある。

Francesc Tosquelles (1912, Spain-1994, France)
La Mejor Siesta se Hace a la Sombra de las Perales 最高のシエスタは梨の木の木陰で
1943-1944
写真にインク
展示にあった作品の解説欄には、「私たちが世界を歩くとき、重要なのは頭ではなく足だ。自分がどこを歩いているのかを理解することだ」とあった。トスケルは亡命は足に刻まれることを理解していた。国境を越えるのは足だからだ。1947年に、トスケルは認知的経験の場所は脳ではなく足だと主張している。故郷のバルセロナでの思い出も、きっと彼の身体に刻まれているのだろう。
トスケルとサン・アルバン精神病院の仲間たちは、戦火でも、精神病院や強制収容所のような苛酷な環境でさえも、癒やしと絆がある共同体を生むことができると実証した。そしてその後のフランスの医療、文化、思想に多大な影響を与える震源地となっていく。
後編は、展示内のジャン・デュビュッフェとアール・ブリュットに関する資料や作品、アメリカの精神医療とその関連作品をレポートする。
参考サイト:
- National Endowment for the Humanities https://www.neh.gov/article/politics-and-psyche
- Collection de l'Art Brut https://www.artbrut.ch/
- Auguste Forestier's unbroken wanderlust https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6998640/
Francesc Tosquelles: Avant-Garde Psychiatry and the Birth of Art Brut 展示情報
会期 | April 12, 2024〜August 18, 2024 |
時間 | Wednesday–Sunday: 11:30 am〜6:00 pm |
会場 | 2 Lincoln Square Columbus Avenue at West 66th Street New York, NY 10023 |
料金 | 無料 |
URL | https://folkartmuseum.org/ |