建築と身体性2
先日、オスカー・ニーマイヤーの映像を見た時から、しばらく「建築と身体性」について考えている(「建築と身体性1 ―オスカー・ニーマイヤー」)。
このテーマについては、これまでも建築家の先代たちがあらゆる言説を表明してきていると思うが、その多くは振る舞いや身体感覚から生まれる空間の美学であったり、寸法感覚に関する提言であったりする。その意味では、僕も実際にコルビュジェの身体性に触れた時は驚いた。マルセイユのユニテダビダシオンに行った時のことだ。モデュロールを踏襲したこの集合住宅では俗に言う「身体性」を意識せざるを得なかった。空間はもちろんのことだが、実際に身体で触れる建具や家具といった身近なもののちょっとしたおさまり等についてである。意識せず、ふと腰掛けた時のベンチの心地よさや扉を開けた時の取手のちょうど良さは、突然、意識の中に降ってくる。部屋の中で何の気なしに開けた引き戸の手掛け心地(余韻)に驚いて、気持ち良く何度かスナップを繰り返して呆然としたことを覚えている。
しかしながら、ここで僕が掲げる「身体性」のテーマは少しニュアンスが違う。それは建築が立ち上がってから生み出されるような偶発的な空間性であったり、建築を利用する側が発見するような使い方の面白さのことである。建築自体が持つ身体性というのだろうか。この「身体性」を持つ空間は、本来設計者が意図していなかった効果を発現するという意味で、無意識的となもの言えるかもしれない。ある場所にある設計をしたことで、使い手側に特別な動きや生活の癖みたいなものが生まれると言うことがこの「身体性」に垣間見える特徴で、元々の用途を別の用途に転用するといったリノベーションが生み出す効果とも似ている気がする。分かりやすく言うと「答え」のあるデザインではなく、「問いかけ」のあるアートのようなアプローチで設計をすることの面白みとも言えるかもしれない。そして、そういった「身体性」が引き起こす効果については、実は映像表現によって気づかされることが多いというのもひとつ興味深いところでもある。
これは建築空間だけでなく、都市空間や舞台芸術の中でも同様に言えることである。例えば、前述のスケートムービーを見てすぐに思い出した映画『Pina / ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を紹介したい。
言わずと知れた名監督であるヴィム・ヴェンダースが撮り、日本では2012年に公開された振付師ピナ・バウシュのドキュメンタリーである。舞踏や演劇は演目と舞台装置との関わりが深い。特に、ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踏団(タンツテアター・ヴッパタール)の演目はその舞台とダンサーの空間性、距離感、振り付け、セリフなどが相互に関わりあい、反復を重ねていくことで感情が折り重なっていくような前衛的なパフォーマンスをすることで知られている。劇中の「カフェ・ミュラー」などに至っては椅子が無数に置かれた舞台装置からインスピレーションを受けたピナ・バウシュが演目や振り付けを決めていったと言うように、空間と身体と演目が切り離すことができない関係にある。
そのため、舞台上での演目はもちろんのこと、仮に、ダンサーが舞台を飛び出して外部空間へ出た途端、建築や都市空間そのものが丸ごと彼らの舞台となり、それらとの相互関係の中でパフォーマンスが繰り広げられることになる。ここがこの映画の映像芸術としてのユニークな部分であり、「建築と身体性」の可能性を垣間見た部分である。この映画はヴィム・ヴェンダースが当時の最新技術であった3D撮影を駆使して空間の広がりとダンス表現の映像化を可能にしたところがとても話題になった作品であるが、さらに革新的なのは従来の劇場を飛び出して、モノレールや工場などの現代建築、森や庭園などの自然の中でソロパフォーマンスをするダンサーたちを追いかけ、未知なる映像作品を完成させたところにある。
「土や水や岩、花など、ピナは自然界にあるものを舞台に満たし、その中でダンサーたちを踊らせ、観客をあっと驚かせたのだが、ヴェンダースは逆にダンサーをヴッパタールの街や自然の風景の中に連れ出し、そこでパフォーマンスを展開させた。ピナの作品は人工的な体験ではないと思ったからです」(カタログより抜粋)。
ドイツのヴッパタールにて舞踏団を率いたピナ・バウシュを表現するにふさわしく、実際の撮影も現地やその周辺地域にて行われた。その中でも特に印象深かったのは、ヴッパタールからほど近いエッセン(Essen)にあるツォルファアアイン炭鉱業遺産群(Zollverein Coal Mine Industrial Complex)で撮影が行われたシーンである。この場所は1986年に操業停止した炭坑跡地を州が購入して用地整理をし、産業遺産へと転換したプロジェクトとして知られている。1997年にノーマン・フォスターが旧ボイラー工場をデザインセンターに改修したプロジェクトを皮切りに、デザインと芸術に重点をおいて産業遺産の再活用をしたことで評価され、2001年にはユネスコの世界遺産に登録された。映画の中ではレム・コールハースが設計した博物館へのアクセス(オレンジ色に光る階段やエスカレーター)の上で、何度も何度も同じ振り付けを繰り返しながら踊るダンサーの姿や、SANAA設計のツォルファアイン・スクールの中でペアが寄り添いながら踊るシーンによって、それらの舞台は設計者の意図とはまるで違う機能を持った空間のごとく映し出される。
実際にこの地に行ったことがある人ならわかると思うが、この場所の殺伐とした感じ、鉄臭い感じ、そこにある産業遺産や構造物の強さ、それに対する人間の小ささ、弱さ、、それらはダンサー達の圧倒的な存在感と振り付けによって、空間の質を丸ごと変化させられ、場所に動きや豊かさ、感情を与えている。ここにヴィムヴェンダースがこの場所でしか撮れなかったピナ・バウシュの世界が凝縮されているような気がした。
「トウシューズの中に生肉を入れ、そのままトウで踊る『ヴィクトール』からの一場面がいかにもルール(ラインラント)地方らしい無機質な工場の敷地内で繰り広げられても、むしろしっくりくる」(カタログより抜粋)。
ダンスと演劇の垣根を取り払ったピナ・バウシュと、舞台と映像の垣根を取り払ったヴィム・ヴェンダースによって、現代建築の空間や都市空間は、彼らの舞台の延長へと姿を変え、ダンサー達の空間性や反復性のおかげで空間の質がより豊かなものに感じられることとなった。この映画に、ニーマイヤー建築でスケートボードをする映像を見た時に感じた「建築と身体性」を同じように感じたのは、そのストリート性も少なからず寄与していると思うが、空間を感じる側の視点を変えてくれるものであったという点にある(次回に続く)。