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圧倒的な美と、人間の醜さが共存する映画

さらば、わが愛 / 覇王別姫』を初めて観たのは、大学二年生の冬、池袋の新文芸坐でリマスター版が上映された時であった。ポスターの妖艶な美しさに惹かれ、ほとんど何の予備知識もないまま劇場へ足を運んだ。

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Chinese Woman Applying Make-Up With Brush

圧巻であった。

華やかな舞台の裏側で繰り広げられる虐待や裏切り、戦争といった人間の醜さを描きながら、それらすべてを飲み込んでしまうような圧倒的な美しさがあった。劇場を出たあともレスリー・チャンの面影に心を残したまま、淡い感傷を抱えて家路についたものである。

そんな本作が、2026年6月1日からAmazon Prime Videoで配信されると知り、配信開始日に迷わず再生ボタンを押した。二度目の鑑賞では、初めて観た際の圧倒的な感動とはまた違う発見があった。特に美術史を学ぶ身として興味深く感じたのは、京劇を取り巻く観客やパトロン、そして社会の価値観の変遷である。

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beijing opera

パトロンに支えられた京劇の世界

物語の前半では、京劇は旧時代の権力者たちによって支えられている。

幼い小豆子が台詞を何度も言い間違え、口にキセルを突っ込まれる場面。宦官・張公の前で足すことを強いられる場面。これらはこの世界の残酷さと、役者が権力者のまなざしに絶えず晒されている事実を強く印象づける。

蝶衣にとって、パトロンというものは単なる観客にとどまらない。芸を認め、生活を支え、自らの存在を保証してくれる存在である。映画中盤では、菊仙に小樓との絆を奪われ、喪失感に耐えきれなくなった蝶衣が演劇界の重鎮・袁四爺のもとへ向かう場面が描かれる。ここには個人的な悲劇と同時に、京劇役者が権力者との庇護関係のなかで生きざるを得なかった実情が映し出されている。

変わり続ける観客たち

日本占領期になると状況はさらに複雑になる。日本軍は支配者として中国を抑圧する一方で、青木大佐のように京劇を深く理解し、その美しさに心を動かされる人物も描かれる。青木は蝶衣に『牡丹亭』を演じさせ、その舞をただ静かに見つめていた。後の裁判で蝶衣が「彼は私に指一本触れなかった」と語る場面は印象的である。権力者への奉仕によって生き延びてきた蝶衣にとって、青木は数少ない「芸を見てくれた観客」だったのかもしれない。

共産党政権下に入っても、人々はすぐに京劇を否定するわけではない。祝賀公演では大衆が歓声を上げ、蝶衣たちの舞台に惜しみない拍手を送る。共産党軍主催の公演においても、兵士たちは整然と席に座り、蝶衣が満足な舞台を披露できなかったにもかかわらず拍手を送る。

しかし文革が始まると、昨日まで舞台を見上げていた人々は、今度は役者たちを糾弾する側へ回る。弟子は師匠を告発し、友人は友人を批判し、観客は吊し上げ集会の参加者となる。

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Solitary Stroll on Ancient Chinese Flagstone Street in Misty Rain

昨日の美、今日の罪

吊し上げ集会に参加した人々は、本当に京劇を憎んでいたのだろうか。映画を通じて描かれるのは、変わりゆく時代の空気に少しずつ染まり、その都度「正しい」とされる価値観に身を委ねる人々の姿である。

張公、袁四爺、青木大佐、国民党の軍人、共産党幹部。時代とともに権力者は入れ替わり、それに合わせるように京劇を取り巻く評価も変わっていく。昨日まで称賛されていたものが、翌日には糾弾の対象となる。

華やかな舞台の幕が下りた後に残るのは、京劇の美しさだけではない。時代に翻弄されながらも何かを信じようとする人々の姿と、その信念がいかに脆く、儚いものであるかという問いである。