2022年9月30日から11月27日までのあいだ、13ヶ国から全28組の作家が参加した岡山芸術交流2022が行われ、閉幕しました。
2016年から始まり、3年に1度開催されるこの国際現代美術展には、毎回著名なアーティストがアーティスティックディレクターとして招かれ、今回はタイの現代美術作家であるリクリット・ティラヴァーニャがアーティスティックディレクターを努めました。
okayamaartsummitのインスタグラムより、リクリット・ティラヴァーニャ氏
過去に開催された岡山芸術交流2016では、1960年代からの現代アートの流れを意識した教科書的な作品展示が行われ、前回の岡山芸術交流2019では最先端の現代アート作品が立ち並び、アートファンを唸らせた一方で、現代アートに親しみがなく、作品を見ても何も分からず困惑する市民の姿も多くありました。
3回目となる岡山芸術交流2022でも多くの現代美術作品が展示されていましたが、今回は今まで以上にアートを通した交流を生み出すことに主眼が置かれ、参加型の作品や岡山にゆかりのある作家の作品などが増えていたのが特徴的です。
今回アーティスティック・ディレクターに選ばれたリクリット・ティラヴァーニャは、パッタイやカレーなどのタイ料理をギャラリーなどで振る舞い、そこで生まれたコミュニケーションや、コミュニケーションが生み出されるよう仕掛けの施された空間そのものを作品として展示し、新たなアートと展示のあり方を示した作家の一人として有名であり、その人選からもアートを通した交流を生み出すことにフォーカスを当てていることが分かります。
そんな彼が今回の展覧会につけたタイトルは「僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか (Do we dream under the same sky)」。リクリット・ティラヴァーニャによるステイトメントを以下に引用します。
“疑問文としてすべての要素を備えていながらも文末に疑問符のないこのセンテンスは、アイディアの入り口にしかすぎません。
この数年間、世界的パンデミックに加え、アメリカ国内の白人至上主義や世界各地のナショナリスト的ポピュリストの趨勢が強まってきたという背景を踏まえて、私はこの展覧会を私たちの意識や視点を変革するものにしたいと考えています。
こうしたさまざまな思いを巡らし、次回の岡山芸術交流2022についてはできれば、旅人という共通の背景を持つアーティストの周辺的な活動に特に集中したいと考えています。旅人、というのは、選定されたアーティストのほとんどが異質な文化的あるいは社会的背景を持っているという意味です。彼らの多くが、活動や制作拠点を西洋の芸術的ヘゲモニー(ドイツ語で主導権を意味する言葉)の中心に置きながらも、その(西洋的)ヘゲモニーの中での自らの位置づけにおいては、西洋以外の立場からのアイデンティティが根底にあります。彼らの人生と歴史は、西洋との違いによって形作られているのです。
ここでいう夢は、違いのある空や、多元性のある空で見る夢、つまり、西洋的規範の周縁にある物語表現の中で見る夢を意味しています。私たち(参加者と鑑賞者)からすると自らが規範的とみなす世界の外にある表現を経験するということです。言い換えると、物語や人生、そして考え方、見方、聞き方、あり方、さらには希望、野心、そして日常の中で心を動かされるような夢を超えた存在の仕方に対して、私たちの目を開かせてくれる夢を意味しています。”
交流に主眼を置いているとはいえ、岡山芸術交流は大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭などに代表されるような、地域の人々への利益を強く意識した地域アートや芸術祭とは反する方向性を持った、都市的な現代美術展であり、展覧会の中身が大衆受けするようなキャッチーでポップで分かりやすい作品ばかりに置き換わったわけではありません。
その傾向はステイトメントからも分かるように、現代が西洋中心・白人至上主義的な流れの延長線上にあることを踏まえた上で、西洋以外で生まれ育った私たちアジア人や、西洋の中でもマイノリティの立場にある人々にフォーカスを当て、参加作家にゆかりのある国で起こった、あるいは現在進行形で起こっている悲劇を突きつけられるような作品や、社会に対する生きづらさを表現した作品も多く、現代を取り巻く多様性や社会問題に鑑賞者が直面する仕掛けが展覧会の随所に施された、国際現代美術展と評するに相応しい内容でした。
例えば、キャッチーなイメージにより、SNSにもよく上げられているプレシャス・オコヨモンの大きなクマのぬいぐるみの作品「太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている」は、一見かわいらしくありながらも、プールの底に横たわるクマを鑑賞者が前屈みになって見るとき、その姿勢は鑑賞者がクマに服従するポーズを示唆し、クマのぬいぐるみとレースの下着という倒錯的な組み合わせにより、禁じられ、逸脱したセクシュアリティを呼び起こす、という仕掛けが施されています。
ある鑑賞者はプールの底に降り立ってパンツを履いたクマの正面に立ったとき、ゾワゾワすると言って、そのゾワゾワの正体を自分の過去の記憶と経験を掘り起こしながら探っていました。
このクマはただの可愛らしいクマではなく、鑑賞者に精神分析的究明を迫る残酷な一面も有しています。
また、カンボジアで生まれ、現在は台湾で活動するヴァンディー・ラッタナによる三つの映像作品「モノローグ」「…遠い、向こうの、海」「葬式」では、クメール・ルージュ(ポル・ポト政権 1975-1979年)によって引き起こされた虐殺を起点に、虐殺によって一度も会うことのできなかった作者の姉への感情と内省、水田の下に埋められた何千人もの死者たち、土地投機の強行や都市開発による景観の破壊など、カンボジアを取り巻く現状が描き出されていました。
岡山市立オリエント美術館に展示されているバングラディッシュ生まれのアーティスト、ラゼル・アハメドによる映像作品「誰がタニヤを殺したか」では、ラゼル・アハメドが撮影したクィア・ドラァグショー(男性が女装して踊るショー)の主役のマブブ・トノイが、ショーの数ヶ月後にアルカイダの襲撃で殺されたという衝撃的な経験をもとに作られた映像作品(フィクション)であり、殺人ミステリーという枠組みに「なぜ殺されてしまったのか」という問いを落とし込むことによって、ジェンダー問題や難民問題、政治的偏見、登場人物のキャラクターの背後から浮かび上がる歴史的問題など、彼ら(彼女ら)難民や性的マイノリティーを取り巻くシビアな現実を浮き彫りにしています。
okayamaartsummitのインスタグラムより、ラゼル・アハメドによる映像作品「誰がタニヤを殺したか」
林原美術館に展示されている中国出身のアーティスト王兵(ワン・ビン)の映像作品「名前のない男 Man with No Name」には、自国の制度を拒絶し、疎外を受け入れ、中国の社会から隔絶された洞穴で生きる老いた男性の暮らしが記録されており、寡黙な映像から孤独の中で力強く生きる人の生き様が伝わってきました。
そうした作家達の提示する作品を通して見る世界は、同じアジアにいながらも私たちが普段触れたり知ったりすることのない世界と繋がっており、そうした私たちの知らない世界とのアートを通した交流が、岡山芸術交流の目指す方向性として示されていました。
ただ、岡山芸術交流2022の内容は素晴らしかったものの、とある問題をめぐり、一部では禍根や分断が生まれました。問題となったのは、前回の岡山芸術交流2019の翌年、2020年に報道された石川晴康氏のセクハラ疑惑です。当時「アースミュージック&エコロジー」などを展開するストライプインターナショナルの社長であった石川晴康氏は、2015年8月~2018年5月頃にかけて、複数の女性従業員に対して周囲に言わないようにホテルに呼び出すなどのセクハラ行為を行ったとされ、石川氏が内閣府の男女共同参画会議の議員を務めていたことも相まって、大きなスキャンダルとなりました。
石川氏は岡山芸術交流の総合プロデューサーも務めていたため、この報道を受け、岡山芸術交流がなくなってしまうのではないか、石川氏が総合プロデューサーを辞退して続けるのだろうかなど、さまざまな危惧や憶測が飛び交いましたが、石川氏は社長の座と男女共同参画会議の議員の座は辞任したものの、岡山芸術交流の総合プロデューサーはそのまま続けることが判明しました。
石川氏が社長を務めていたストライプインターナショナルでは、2018年12月に臨時査問委員会が開かれ、石川氏に対して厳重注意が行われましたが、セクハラに関する処分はありませんでした。
また、女性社員による告発もあり、石川氏が女性従業員へ送ったLINEの内容も報道されましたが、直接の被害者による訴訟がなぜかなかったため、刑事事件としては立件されておらず、社長と議員の座を辞したのも、セクハラをしたからではなく、「報道でお騒がせしたため」という理由になっています。
総合プロデューサーの継続も、ストライプインターナショナル社の臨時査問委員会の結論をもとにした「セクハラの事実は認められていない」という認識の上に成り立っており、訴訟されず、会社でセクハラと認められさえしなければセクハラにはならないのかと、納得のいかない人々からセクハラ疑惑に関する説明を求める声も上がっています。
岡山芸術交流は以前より、天神山文化プラザを占有し、既存の利用団体(岡山市民)に迷惑をかけていることなどが問題視され、市民団体「岡山芸術交流を考える市民県民の会」が問題の改善を働きかけていました。
そこにこのセクハラ疑惑を問題視する人々が加わり、「岡山芸術交流を考える市民県民の会」が中心となって市民の声を集めて陳情書や400名の署名簿を付けた要望書を提出しましたが、セクハラ疑惑に対する説明は結局最後まで行われませんでした。
岡山芸術交流が石川氏が自費で開いている展覧会であればセクハラ疑惑への批判があっても続けるかどうかは個人の自由ですが、岡山県と岡山市が税金を投入して行っている事業であり、たとえ一部であっても市民の間に不信感が広がっている以上、市や県は事実関係の確認や説明を行うのが筋なのではないでしょうか。
岡山芸術交流の実行委員会が「セクハラの事実は認められていない」という根拠にしているストライプインターナショナル社の臨時査問委員会の内容は公開されていないため、どういう話し合いの結果セクハラはなかったと判断されたのか、セクハラをどのように定義しているのか、社長に対する忖度はなかったのか、他の上司が部下に対して同じことを行っても同様に処分は行わないのか、何に対しての厳重注意が行われたのかなど、詳しいことは何も分からず、根拠となっている情報の中身が不明瞭なままであるというのも問題でしょう。
11月27日に蔭凉寺で行われた岡山芸術交流2022のクロージングイベントのトーク「世界が変わる、今、国際展と芸術祭の課題と可能性とは」の中で、浅田彰氏が石川氏のセクハラ疑惑をめぐる問題について、全く触れないのはおかしいからと少し言及する場面もありましたが、そこから問題に関する話が発展したり、出席していた岡山芸術交流の総合ディレクターである那須太郎氏が問題に関するコメントをしたりすることもなく、トークイベントは終了しました。
石川氏のセクハラ疑惑問題が岡山芸術交流の公式プログラムなどの中で議論され、セクシャリティやハラスメントに関する問題意識が深まっていったのであれば、石川氏が総合プロデューサーにあえて留まり続けた意義もあったかと思いますが、実際にはセクハラ疑惑問題について触れることがタブー視され、まるでなかったことかのように扱われたのは非常に残念です。
石川氏のセクハラ疑惑問題をめぐって岡山芸術交流に対するさまざまな批判が出ていますが、その批判の多くがアーティストやアートに関する仕事をしている人など、アート関係者から多く出ており、岡山芸術交流そのものをなくすべきだという批判は少なく、その批判の多くは石川氏が総合プロデューサーを続けていることと、石川氏が総合プロデューサーであることを許容している実行委員会や岡山県・岡山市、そして参加アーティストなどの関係者に向いています。
ただ、参加アーティストに関して言うと、おそらく海外から参加している作家のほとんどは石川氏のセクハラ疑惑問題を説明されていないため、知らないまま参加していたのだと思われます。
また、日本から参加している作家の場合、あえて参加することでセクハラに対してNOというメッセージを突きつけていると思われる作家もいます。
例えば著名な日本人アーティストである片山真理は、内山下小学校に展示した「possession #2274, #2297, #2355, #2404, #2411, #2429, #2499, #2523」という作品のキャプションにこう記しています。
“作家として生きること=経済活動をしていくことは社会に関わることであり、この社会では、私は障害者であり、女であり、母であり、いろんなタグがついている。
20代の頃は、「特異な身体を被写体にすれば注目されるだろう」、「君の作品が評価されるのは君自身が障害者で若い女の子だからだよ」という言葉を投げかけられることがよくあった。作品と私自身は別物だとわかっていても、私自身が「健常者のような」生活や制作、作品ができるよう努力した。時に女性的ではないように振る舞ったり、装ったり、年齢を偽ることもあった。
このごろはそんなこと気にも留めないから、そのせいで落ち込むこともなくなった。幸せな日々を過ごしている。よりよく生きることは最大の復讐だ。
「ダイバーシティがテーマだから障害者が必要なんだ」と展示に誘われたり、妊娠に際して「障害のある子が生まれる」と他人に説教されたり、「セックスしてあげる」とホテルに呼び出されたり、飛行機の検査やポートレートの撮影で突然大勢の前で「脱ぎますか」と言われることもあるけれど、笑顔でぐっと我慢すれば大丈夫。タグをつけられると、「誰か」の所有物になってしまう。たとえば、「母」のタグはその子のものだけじゃない。「障害者」というタグをつけられるとなぜか社会みんなのものにされがちだ。忘れていた「立場」を思い出させてくれる。その気づきは、悔しいけど無防備な体と心に響き渡ってなかなか出ていかない。この経験はどんな愛の言葉よりも強く、きっと一生忘れることはないだろう。だからこそ作品を矛にして、この響きを盾にして、愛を守りたい。”
Okayamaartsummitのインスタグラムより、片山真理の作品「possession」シリーズの一部
また、天満屋に展示されている片山真理の「just one of those things」という作品のシリーズのキャプションにはこうも記されています。
“ハイヒールが特別ではない、ただの選択肢のひとつであるように。だれでも「イエス」や「ノー」と発言ができるように。あるいはそのどちらなのかも悩むことができるように。それが、ハイヒール・プロジェクトがテーマとして掲げる『選択の自由』です。義足のためのハイヒールを作り、その姿でステージに立つハイヒール・プロジェクトは、2011年にスタートしました。この作品は、今年、第二弾を再始動させるにあたって撮影したセルフポートレート作品です。好きなものを好きだと言うために、嫌なことは嫌!おかしいと思うことをおかしいだろう!と発言する。そういう風に自分を大切にする方法もあるはずです。”
片山氏の作品やキャプションを見れば、少なくとも彼女が女性に対して行われるセクハラを容認するような考えではないことが分かります。
そのほかにも岡山芸術交流2022にはセクシャリティに関する問題に触れている作品も展示されており、立場の弱さや性的な目を向けられること、搾取されることに対する苦しみが作品から伝わってきます。石川氏はこういった作品を見て、どういう感想を抱いたのでしょうか。
内山下小学校に展示されているリクリット・ティラヴァーニャの作品の一つである、大理石でできた「無題 2017 (オイル ドラム ステージ)」では、岡山の老舗ライブハウスであるペパーランドがコーディネートした岡山近辺のミュージシャンや、さまざまなパフォーマーが、ステージの上でライブやパフォーマンスを行いました。
出演した人の中には、そもそも石川氏の問題を知らない人、知っていても石川氏個人の問題と岡山芸術交流とは分けて考えている人、石川氏に批判的な立場だがあえてステージに立っている人、セクハラを悪いことだと思っていない人など、様々なスタンスの人がいます。本来であれば、「無題 2017 (オイル ドラム ステージ)」は地域の人が岡山芸術交流で発表する場を与えられるシンプルな参加型の作品なのですが、石川氏の問題をめぐって様々なスタンスが生まれたため、このステージを通して作家の全く意図していなかった分断が起きてしまいました。
ステージに登壇すること=石川氏のセクハラ疑惑に目を瞑ることになるわけではありませんが、中にはそう感じてしまう人もおり、友人や知人がステージに登壇することに割り切れない思いを抱く人や、登壇する人に批判的な言葉を投げかけてしまった人が少なからずいます。
okayamaartsummitのインスタグラムより、「無題 2017 (オイル ドラム ステージ)」の上で曽根裕、大和田俊らが本展のために結成した「Untitled Band(Shun Owada and friends)」によってライブが行われている様子。 ステージの後ろにあるのは曽根裕の作品「アミューズメント・ロマーナ」。
そうした割り切れない思いや批判的な思いを抱いた人々が集まって行った、岡山芸術ごっこというアクションも岡山芸術交流2022が開催されている会場の周辺では行われていました。このアクションはパフォーマンスとZINEの制作・配布によって構成され、一人のアーティストがパフォーマンスを行っている傍らで、岡山芸術交流に対してのモヤモヤを抱えた人々の声を綴った紙をホッチキスでまとめてZINEを作る人々がおり、パフォーマンスが終わると制作されたZINEが鑑賞者に配られるという内容です。
配布されたZINEには、岡山芸術交流2019が素晴らしかったので期待していたのに石川氏が総合プロデューサーを続けていることにひどく幻滅したという声や、岡山芸術交流の問題を容認している人々への憤り、アートやLGBTQへの支援を利用して石川氏のイメージ回復をはかりセクハラ疑惑をうやむやにしようしているのではないかという不信感、セクハラ疑惑をただのゴシップだと言って気にしていない人との温度差に悩む声、参加作家に疑念や偏見を抱いてしまう自分への葛藤、石川氏が辞任さえしていれば芸術交流を楽しめたのにという無念など、岡山芸術交流2022をめぐって生まれた様々な思いや分断に対する叫びが込められていました。
石川氏のセクハラ疑惑など、岡山芸術交流が抱える疑惑や問題はこのまま忘れられていくのかもしれませんが、根本的な解決はしていないため、一部の人々の間に広がって燻っている思いが次回の岡山芸術交流の際に再燃し、より大きく炎上する可能性も残っています。
3回にわたる開催で国際現代美術展としての方向性を示してきた岡山芸術交流は、3年後どのようなテーマを打ち出してくるのでしょうか。また、そのとき石川氏は総合プロデューサーとして名を連ねているのでしょうか。