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写真集『ははのふた』『ははのふた』下道基行さんへのインタビュー

今回は2025年6月に赤々舎より出版された、下道基行さんの写真集『ははのふた』に関するインタビューをお届けします。

山本:下道さんのホームページ今回出版された『ははのふた』に書かれている内容によると、2012年に結婚して奥さんの実家へ引っ越し、下道さんと奥さんとお義母さんの3人暮らしが始まった際、お茶の容器にお義母さんがいろいろな「ふた」をのせている様子が(東日本大震災をきっかけに日常の人々や風景への感覚が研ぎ澄まされていた)下道さんの目にとまり、こっそりと撮影を始めた写真がこの[ははのふた]シリーズですね。

個展を機に撮影していたことをお義母さんに打ち明けたそうですが、この個展とは、2015年から2016年にかけて豊田市美術館の図書館で行われた [ははのふた|14歳と凹と凸/Mother’s Covers|14 Years Old’s 凹 and 凸] のことでしょうか?

下道:はい、豊田市美術館の展示会場じゃないところ(図書館とか)を使って、何か発表して欲しいという依頼が来て、ちょうど完成しそうだったこのシリーズを展示したいなぁと思って、お義母さんにこっそり撮影していたことをカミングアウトした感じです。

山本:お義母さんは一応受け入れてくれたと書かれていますが、自分が無意識にやっていた「ふた」を撮影されていて、それを展示したいと打ち明けられたお義母さんはどのような反応でしたか?

下道:びっくりして、「そんなのを撮ってたの?勘弁してよー」って感じだったかな?

でも、「僕はこういう日常を撮影して、それを作品にして、その風景の面白さとか美しさみたいなものを人に伝えたりするのが写真家の仕事。この写真もたぶん色んな国の人とかに届いたり、面白く思ってくれたり、励まされたりとか、そういうことも起こるんじゃないかと思ってるんです。だから、よければ許可してくれると嬉しいです。」って伝えて、許可してもらえて展示しました。結果的にお義母さんもすごい面白がってくれて。

最終的にはあるアートコレクターさんが豊田市美に展示していた写真を全部欲しいって言い始めて、それもお義母さんびっくりしてましたよ。「これを買うの!?一枚何万円で買うの?本当に?」みたいになって、「そうなんですよ。こういう仕事なんですよ」って言って。それで一緒にご飯食べに行きました。笑

山本:豊田市美での展示の後、2021年に金沢21世紀美術館で行われたグループ展 [日常のあわい/Somewhere Between the Odd and the Ordinary] へ[ははのふた]を出展されたほか、写真集には「この作品はいろいろな国の展覧会を旅し始めた」とも書かれていますが、どこで展示されたのでしょうか?

下道:うん、[ははのふた]はなぜか韓国の人たちに人気があって。別々の機会に二度展示しましたし、購入してくださる方もいて。さらに、2022年にはデンマークの現代美術館でも発表しました。

山本:なるほど、2012年から2015年にかけて[ははのふた]を撮影して、2015年に豊田市美で展示、その後韓国でも展示を行い、2020年頃からまた[ははのふた]の撮影を再開、2021年に金沢21世紀美術館、2022年にデンマークで展示をして、そして2022年から奥さんによる[つまのふた]も出現したので撮り始め、今回出版に至ったという流れですね。

下道:そうそう。最初は[ははのふた]が写真集になるなら、[つまのふた]がおまけみたいに、小さなZINEみたいになって入っていたら可愛いかなと思って、出版社とデザイナーとの話し合い、今回出版されたように本の後半部分として差し込まれることになりました。

山本:ちなみに奥さんの方の反応はどうだったのでしょうか?

下道:うん、すごい渋い顔してましたね。はいはい…っていうか。笑

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山本:[ははのふた]は、最初はなんとなく撮り始めたのでしょうか?

下道:前史も含めるとちょっと細かくて長い話になっちゃうけど、実は[ははのふた]の直前に[bridge]っていう似たようなシリーズを制作しているんです。

2011年4月に東京のギャラリーで個展をする予定があり準備を進めていて、最初その展示では[Re-Fort Project]の新作をするつもりでした。内容は、80年前の砲台の廃墟をリノベーションする計画。でも、3月11日に、ちょうどそのときに震災が起きて、トークイベントに向かっている途中に東京で地下鉄に閉じ込められて、イベントも中止になって、展示も延期になった。

展示自体は震災から3ヶ月後くらいに実施することになったけど、今まさに歴史的な大事件(東日本大震災)が起こっていて、80年前の戦争と向き合う内容の企画ではなく、自分が今やるべきことは何だろう?と気持ちが揺らいだ。そして、「展示までもう時間がないけど、今から新しい作品に変えたい。」とキュレーターに相談したんです。

その頃、たまたま立ち寄った京都の郊外で、ふと風景の足元のこれ(側溝に架けられた橋のような板)が気になって撮影したらすごくしっくりきて、「今やりたいのはこれかも!」と、撮影を始めた。

ちょうど被災地へボランティアにも行こうと思っていて、そこへカメラを持って行くべきかどうか悩んでいた時でもあった。被災地を被災地として被写体にすることには抵抗が強くて、自分には無理だと思っていたけど、自分の目で見ておくべきだとも密かに思っていたし、被災地を直接的なネタに作品を作りたくもなかった。

でも、この震災によって自分が変化し、その変化した自分が作ることが重要だと思っていた。その中で、壊れた風景の中で一番最初に生まれ始める可能性を持った存在、すごくプリミティブな人間の創造性というか行為に興味が移った自分自身を感じた。

(震災から)少し時間が経って、関東大震災のときに今和次郎が撮ったバラック建築みたいなものが今起こるとすると、たぶんこういうもの(溝に架けられた橋など)なんじゃないかって。

もしこういう人工物が被災地で生まれていて、この何か新しく人間の生活が始まる、原始的な一個の創作物として生まれてくるものを、ボランティアをしながらそれを撮ったとしても、被災地とは分からないようにも撮れるなと。

それで、この被写体を撮影しながら京都から九州へ行って、遠回りしながら被災地も通って、東北抜けて北海道までいって、東京の展示会場まで戻って来るというプランを立てて、展示期間中に旅をしながら撮影した写真を送って、ギャラリーの人が毎日印刷して貼って行くという展示をした。

そうして旅を終えてギャラリーに戻り、住んでいる東京に戻ってきた。でも、もう住む場所として東京はなんか違うなぁって感じて、愛知の妻の実家に引っ越して、そこで[ははのふた]に出会い撮り始めた、と言う長い話…。

だから、[ははのふた]の一個前にこの[brdige]がベースにあって、誰しもが持っている創作行為というか、営みの一部としての行為に興味があった。そうした行為は、最近ではスマホや百均とかによって奪われていってるんだけど。

その2011年にボランティアしながら被災地を旅したときも、車や家や道路標識や全部のものが津波によってぐちゃぐちゃに壊されて、ただただ瓦礫という名のゴミとなって5メートルくらいの山になって集落に積まれているのがとても印象的だった。

山本:今は(今和次郎が撮っていたような)バラックを一般の人が作ることはないでしょうし、職人が組み立てた仮設住宅に入りますよね。

下道:なんかこう、人間の営みには、いろんな行為があって、それが形になって風景に現れてくる。でも、全ての生活を便利にするために、全ての行為というのか、機能みたいなものは、すでに準備されて機械の中に用意されているような時代になった。便利になりすぎたっていうのはおかしいんだけど、いろんなことをスマホや機械がしてくれる。でも、人間のクリエイティブな本能ってどこかに押し込まれながら潜んでいて、ムクっと生活の中に出てきてることがある。

ちょっとした溝のところに橋を架けることとか、食器に何かでふたをするとか、そのくらいのところに。

2011年の震災を経て、急にそういうものに興味が移ったというか。うん。それまで僕は近代や戦争を扱って作品を作っていたのに、急に変わってしまった。

でも、世の中の若い芸術家たちは、逆にこのタイミングを境に、社会問題をダイレクトにネタとか素材にして作品を作るようになっていく。本来2011年3月にやる予定だった戦争の遺構をネタにする[Re-Fort Project]の方がより現代的だったはずだったようにも思うけど、それを放棄した。

でも、僕は東日本大震災や福島の原発事故を東京で経験して、考えて行動した一つの結果というか答えが『ははのふた』だと思っている。直接的にその経験が分からないくらいにギュッと圧縮されて抽象化された状態がちょうどいいと思っている。

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山本:お義母さんに展示の許しを得たあと、「自分の行為に意識的になるから」撮影を中断されたとのことですが、展示後のふたには何か変化がありましたか?

下道:意識的になったように思うね。

山本:またお義母さんや奥さんの意識が薄れて、無意識にふたが作られ始めたら、また撮影が続いていくのでしょうか?

下道:可能性はあるかも。

(ふたが)更新されていくだろうし、もう一回僕の感覚に引っかかってくることはあるだろうから、継続されるかも。でも、今回みたいにアウトプットすると一回シリーズとしては少し落ち着くところもあるね。今回は展示じゃなくて写真集。本になったというのは展示したときとは全然感覚が違います。展示は同じシリーズを展示する場合でも中身を変えていけるけど、写真集はカチッと定着しちゃうし固定される感じがあるね。

山本:下道さんは今まで、『戦争のかたち』を出版された後も自費出版で色々本を作って出されていますが、やはり本にすることに対するこだわりがあるのでしょうか?

下道:ありますね。時間的な感覚として展示とは全然違うよね。やっぱり残り方が違うっていうか、届き方が違うっていうか。

空間表現って意外とパフォーマティブな、ライブみたいなものに近いんだけど、でも、音楽やダンス、パフォーマンスの人からすると、それでも死んだものを置いていると感じてるはずだろうけど。(展示は)作家が手を離して勝手に再生している感じで置いているけど、展示が終わったらそれって撤収されるから、数ヶ月のあいだしか発生しない体験を生み出してる感覚。

でも、本ってそれ自体が1つの個展空間みたいなものとして閉じてて、でもそれが持ち運べて、鑑賞者の時間と空間に任されている体験。

日本の本って海外でもすごく人気あるから、場所や時間を超えて、海外の知らないところで「読みました」とか、「本を読んで(下道さんを)呼びました」とかの反応が返ってくる時もある。やっぱり本って全然違うよね。存在している時間とか届く時間が違うから、日本ではもう古いものになってるけど、海外で新しいものとして受け入れられるみたいなことも起こるし、そういうのは展示とかそれを残したカタログじゃ起こりにくいけど。

美術館のグループ展で3ヶ月出すと、興味ない人も含めて何千人見てくれるって感覚だけど、本って数百数千しか刷られないけど、図書館にも残るし、携行本として旅をすることもある。最近古い写真集を買うけど、やっぱり買ってみると70年前とかの流れとか空間を持っていると感じるし、1つの表現手段としてすごくいい。

紙媒体の面白さなのか、本の面白さなのか、まあでもその辺の時間感覚を操れるの好きなんだろうな。

1つの表現というか、うん、文章の本でもいいし、写真の本でもいいし、本は可能性はまだまだあるなとは思って。

山本:直島写真研究会(下道さんが直島で始めた部活動的な写真研究会)や山下道ラジオでも言われていましたが、今回、出版社の方から紹介されたデザイナー(寄藤文平+垣内晴)さんにデザインをお願いして、今まで自費出版で自分の思うように作ってきた感覚とはだいぶ違う本作りだったと思いますが、どういう流れや感じだったのでしょうか?

下道:そうね。これを話すと少し長いんだけど。2005年、デビュー作『戦争のかたち』を初めて出版社に持ち込んだ時、出版社の人が「これは写真集にはならないね」って、A5サイズで文章多めだったらいけるかもって言われた。僕としては写真集にしたかったから落ち込んだけど、「そうじゃなかったら売れないしうちじゃ作れないよ」って言われてその条件での出版になった。いや、もちろん編集者さんもいい本を作ろうと思っている。でも作家が思い描く本とある意味ビジネスのプロの仕事はまた別なんだと思う。だから今思うと本当にいい経験をさせてもらえた。

その後に2作目[torii]シリーズを出版社に持ち込んで、編集部はすごく面白がってくれたけど、販売する部門にかけあったときにやっぱり「写真集じゃ売れないから出せない。A5サイズくらいで文章多めで、旅の日記とかいっぱい入っていたら出せるよ。」ってなって悩んで、今度は断って自分で小さな出版物を作って、全部自分で写真集として作って出版した。それ以来、出版社には持ち込まず自分でお金を作って、デザイナーさんにお願いして、自分で手売りしてを続けてきた。そういう経緯がある。

で、今回の『ははのふた』は、ある意味で2015年くらいには仕上がっているシリーズで、すでに展示としては発表をやってきた。写真集にもしたかったけど温めていた。

そんな中で、コロナ禍の日常の中でこのシリーズを写真集にまとめて、発表したら面白いのでないかと思うようになって、自分で赤々舎に持ち込んだ。写真集をたくさん作ってきた赤々舎で制作されることで、思いもよらない客層にも届いて欲しいと期待して。

僕ではない、出版社の編集者さんの専門性をベースに制作してみたい感覚もあった。だから、デザイナーさんも編集者さんにお任せした。

でも実際、自分の作品が思いもよらない驚きのデザインで提案されて、心はグラグラ揺れた…。一応自分の受けたイメージや意見をデザイナーさんや編集者さんに話してみたけど、自分がどこまで出しゃばるか悩んだし、そういう時間が結構かかったように思う。

そういう意味で、直島でやってる写真研があってよかったなと思ったかもね。写真研では参加者が完成した写真や作品だけを見せ合うのではなく、途中のプロセス段階をみんなに見せて「今こんな状態。みんなどう思う?」とかやっていて、僕はその中でこの写真集の途中経過をみんなと共有しながら語り合った。紙は光沢とマット、どうだろう?とか。ああいうのはある意味で新鮮だった。

山本:やっぱりデザイン的に最初思っていたのと違っていたぶん、色々と葛藤が大きかったですか?

下道:そうそう。迷っていたのはダダ漏れだっと思うんだけど、でも編集者さんはいっぱい本を作ってきた人だから、僕個人よりは編集者さんを信じてデザイナーさんに委ねようと。

その結果自分の想像を超えるようなものになったかな。

特に、デザイナーさんが「ははのふた」の表紙の装丁デザインを出してきたとき、僕は予想の斜め上を提案されて「えー!?」ってなって、編集者さんに「僕はこう思うけど、どう思います?」って聞いたら、「私はそのままで素晴らしいと思うわ。新しい!」と。

自分の価値基準を信じて仕事をしてきて、それを壊すのは大変だけど、それに挑戦しないと新しい成長はないと思うし、新しいものは生まれてこないだろうし。本当にいい経験をさせてもらった。

山本:この幾何学的な表紙はふたを上からみたところだと思いますが、この真上から撮影したアングルの写真は本の中には入ってないですよね?

下道:ないですね。

最初にデザイナーさんと話しながら「表紙に写真は持って来ない方がいいんじゃないか」という流れになった。初めに出たアイデアが、テーブルの上に水滴で残ったコップの台座の跡みたいなものを構成して要素にするってアイデアもあって、「だったら、僕がお義母さんからふたを送ってもらって、全部をペンでなぞって、それを送りますよ」って言って送ったら、時間をかけてこのビジュアルが出てきた。

山本:なるほど、これはふたをペンでなぞった線だったんですね!

下道:そう、だからこう、継ぎ目の部分がちょっと切れてるでしょ。

僕が送った線画をもとにデザイナーさんがいろいろなことを考えたと思うんだけど、最終的に「同心円状にしておきました」って言ってこれが出てきて、ただ、真ん中の小さな丸は僕が描いていないのでたぶんデザイナーさんが書き加えてる。

ロゴなどフォントをゼロからデザインしたっていうところも大きいですね。

山本:そうですよね、表紙に使われているロゴのフォントはこの本のために作ったオリジナルですよね。

下道:そう、かなり早い段階にこのロゴがデザインされて出てきた。

「ははのふた」っていうのはちょっと強いっていうか、「あ、母のふたなんですね。」ってなるし、それに写真が入ると「あ、母の蓋ね。」で終わっちゃうからだと思う。

山本:たしかにこの文字ちょっと読みにくいし、「ん?なんだろう?」となりますね。

下道:出来上がって出版されて数ヶ月たつけど、未だに自分のものだと思えないっていうか。そういう意味では、自分の価値基準に寄らない新しい物が生まれたと思う。

山本:とてもオリジナリティがありますよね。写真集でこういう装丁の本は見たことがないです。

下道:見たことない。しかも(表紙に使われているのは)僕のドローイングでもある訳で。

でも中の写真の順番は僕が初めにファイルで出したまんまだし、中の流れも全部そのまま使ってて、ほぼ動かしてない。

だから、骨格の80%くらいは僕が初めに渡したものを尊重してもらいながら、あとの2割でものすごい思いもよらないことが返ってきたっていう。だから正解なんだろうなぁ、これが。うん。

もしこれが、今まで誰にも見せてない写真を出版社に持っていって、これを写真集にしませんかってことだったらまた変わったかもしれない。そういう意味では、一周も二周もしたあとの作品の写真集のできかたって僕の中でも初めてだしね。

山本:ちなみに持ち込みをしたのはいつ頃なんでしょうか?

下道:出版までに2~3年かかったから、2022年だったかな?

山本:じゃあデンマークでの個展のあとくらいですかね?

下道:確かに。そのくらいだったかな。

僕はこの[ははのふた]シリーズは写真シリーズだと思ってて、写真集として世の中に伝わって欲しい気持ちがあるけど、やっぱり僕の作品はどうしても写真作品として見てもらえないところがあるなって感じもしてて。

その原因の一つは、作品制作において、アカデミックな場や人達のあいだでは、メディウムというか技法や素材によって分野が別れているから、油絵とは?(キャンバスとは?)写真とは?(カメラとは?)陶芸とは?(土とは?)みたいな、どこのジャンルもメディウム史の中に存在してるし、作家はその土俵の上で新しい作品を生み出そうとしているけど、僕は2000年頃の美大生の時からそういうことをメインで制作することに興味が持てなかったというか…、そういう中で色々な興味やメディウムが混ざり込んで、一つのメディウム史の中で制作しない方向になっていった。

でも、メディウムによる分野分けは現代美術の中では、どんどん薄れていく時代になっていった、だから僕は現代美術だっただけで、僕の中では写真は大事な専門性の一つだし、写真集や本も制作の大切な手法だった。だから、また自分でお金を集めて写真集「ははのふた」を作ろうかなってコロナ禍初期に思ったけど、自分で写真集にしたら、たぶん、また、写真のアカデミックな場からは無視される…とまでは言わないけど、写真の人たちからするとまた現代美術の人がなんか写真使ってやってるってなるんだろうなって、そう見られるんだろうなぁって。

実は、『torii』シリーズを写真集にして自費出版で世の中に発表した時とかは、木村伊兵衛賞だったり東川賞だったり、どこかノミネートにでも引っかからないかなぁと密かに期待してたし、自分ではそういう写真シリーズだ、写真集だと意気込んでいたけど、何も起こらなかったのもあった。僕の写真や作品がダメなのか?自費出版がダメなのか?初期の「戦争のかたち」も「日曜画家」も「torii」も、写真シリーズとして制作したんだけどね、写真業界から紹介されることはやっぱりなかった。

だからそういう意味では、この[ははのふた]は自費出版ではなく、出版社から出したいし、内容的に赤々舎が合いそうだし、写真集のメーカーだから、アカデミックな人も無視できないんじゃないかなぁとか、実は期待をしている。まだ、出版したばかりだから未来の話だけど。

実を言うと、赤々舎には2008年くらいに[日曜画家]っていう別のシリーズを持ち込んだことがあって、興味は持ってくれたけど、本にはならなくて、自分でZINEとして発表した。

日曜画家は僕のおじいさんが描いた絵を撮ったシリーズで、僕が絵を描き始めたのはおじいちゃんが日曜画家だったからで、その影響もあって自分は美大に行ったけど、そのあと(絵画ではなく)写真で風景を撮るようになって、だからそんな自分がおじいちゃんが描いた絵を掛けている風景を撮るっていうのは画中画で、絵画と写真が入れ子になってて、自分とおじいちゃんの関係とか、おじいちゃんが眺めた風景がそこにあるっていうことだったり、そういうことを考えながら、やっぱり風景写真は自分がやっていく仕事なんだろうって思った感じかな。

僕の作品の中で家族や自分自身を描くものが出てきて、それが[日曜画家]と[ははのふた]という写真シリーズ。[日曜画家]はダメだったけど、[ははのふた]は意外と赤々舎に合うんじゃないかってもう一回押してみたっていうのはあったね。

山本:デザイナーさんは写真家の写真集を作るというよりも、現代美術家としての下道さんの作品集をデザインしたという感じがあるのかもしれませんね。

下道:そうそう、実は僕もここ数日、密かにそう思ってて。僕的には普通の正統な写真集が赤々舎から出るってことをたぶん望んでいた…、でも、デザイナーさんはやっぱり僕が写真家らしい写真家じゃないのを見抜いて、やっぱりアートプロジェクト的な本になったっていうか…、作家の行為のコンセプチャルな本になったっていうか。

いや…でも、僕だっていろんな過去の写真家の影響を受けて、自分なりにこの作品を作ったのだけどなぁ…、でも写真家だけの影響でもないからかなぁ…。

そう、だから完成した時、正直、僕的には少しズレたと思った。でも、ある意味でこれが現代的かもしれないと思った。写真集ってまだまだその歴史に引っ張られててそれが”写真集らしい写真集”なのかもしれないし、その自分の中にある正統な”写真集らしい写真集”になった方がよかったなんてことは全然思っていないし、これが最高のアウトプットなのだとやっぱりと思う。でも、著者の僕が受け止められていないのが、宙ぶらりんなのが、また面白い仕上がりなんだよね。

下道基行プロフィール

1978年岡山生まれ。2001年武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。2003年東京綜合写真専門学校研究科中退。日本各地に残る軍事施設跡を4年間かけて調査・撮影したシリーズ『戦争のかたち』(2001-2005)でデビュー。東アジアの日本植民地時代の遺構として残る鳥居を撮影した代表的なシリーズ『torii』(2006-2012)、250年以上前に沖縄先島諸島の海岸線に津波によって流れ着いた岩の現在を動画で撮影するシリーズ『津波石』(2015-)など、旅やフィールドワークをベースにした制作活動で知られる。2020年以降、コロナ禍で香川県直島に家族で移住し地元の人々と協働しながら島のアーカイブを作るプロジェクト『瀬戸内「 」資料館』を継続している。
表現手法としては、生活のなかに埋没して忘却されかけている物語、あるいは些細すぎて明確には意識化されない日常的な物事を、写真やイベント、インタビューなどの手法によって編集することで顕在化させ、現代の私たちにとってもいまだ地続きの出来事として「再」提示するものである。2012年光州ビエンナーレ新人賞、2015年さがみはら写真新人奨励賞、2019年Tokyo Contemporary Art Awardなどを受賞。2019年ヴェネチアビエンナーレ日本館参加作家。国内外での芸術祭や展覧会に参加し、出版物も多数ある。2016-2019年に国立民族学博物館特別客員准教授、2024年から現在は京都芸術大学客員教授。香川県直島町在住。

下道基行 『ははのふた』情報

Book Design:寄藤文平+垣内晴(文平銀座)
発行赤々舎
刊行日20256月発行
価格¥4,500 +
URLhttps://tinyurl.com/ydhjs7jh