「数学 英語 美術を使った仕事がしたいです...」
高校の担任にこんなことを言わなければ違う業界の道もあっただろう。その日から建物を「作品」として意識して観はじめるようになった。その中でいくつか気にとまるものがあり作品の中を歩き回るというのは不思議だと感じたのを記憶してる。その中でもいくつか強く感じるものがありそれが同じ建築家であると気がつき、後に他にも気になった作品も師弟関係であることに気がつく。人間で言うオーラのようなもの。ある人がその場に入るだけで空間が突然歪みはじめ、その場の空気が変わる。この角を曲がればその建築はあるはずだ。このような疑問がなんなのか 当時からあった。そしてそれがどういうカラクリで作られているのか。というところに繋がってゆく。

進路相談から漠然と始まったこの疑問はもう20年近く過ぎているにもかかわらず、未だにこうすると効果が出るという一般公式のようなものはないとふと気がついた最近に至る。

これらは作家性の強い建築家に多く存在する。その建築家によるスタイルや思想から滲み出る独特の空間はそれぞれの建築家で味が異なる。また必ずしも作家性の強い建築家であるから常にその効果を引き出しているかということも絶対的な関係ではないことも面白いところである。建築家それぞれでその切り口は違い、平面でのストーリー運び、素材、透明性の考え方、構造や設備のデザインとの関わり方、施工法など挙げればきりがないこれらが出汁や素材となりプロセスを経てそれぞれの味となっていく。問題としているのはこの完成された味そのものではなくその効果の話をしていきたい。

The tast of creators

料理で例を挙げるとする。
味噌汁を作った時に日によって味が違うことがある。分量もお湯の温度も特に変わりがないのに味が違う。怒った時に作った味噌汁はそれが顕著に出る。辛くはないが、トゲトゲした味である。他の料理でも同じことが言えるがプロセスが少ない味噌汁はその疑いが実に強い。また新婚生活をおくっている友人宅に招かれた時、奥さんが作ってくれた料理は優しい味がした。味そのものももちろん美味しかったがこの「怒った味」や「優しい味」という感覚は最初に述べた建築体験とよく似ている。レシピには書き記せない、図面にはおこせないレベルのものがどこかに存在するのは分かっている。

さらに3歳の子供のいる友人宅でも面白いことが起きた。その日は友人のお母様もみえていた。その友人のお母さんが3歳の孫にスプーンで食べさせようとしていたが拒むのである。必死に拒み結果的には「ママに食べさせてもらいたかった。」と泣き喚くのである。そう。おばあちゃんに食べさてもらおうが制作者であるお母さんに食べさせてもらおうが味は変わらないはずなのにこの3歳の子は誰に食べさせてもらうのかということに拘ったのである。状況に一歩遅れながらもこちらも興味が湧き3歳の子供に聞き返したが泣き喚いてそれどころではなかった。若干失礼なことを聞いていることに気がつき控えるが、納品にものすごく拘り見せたのは事実であった。

これらのカラクリがわからない中で掴みかけている何かをここに残していきたいというものである。