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日本の家 ー空間・記憶・言葉ー』という書籍を紹介する。この本はもう10年以上も前、私が海外に移住する前に勉強のために読み込んだ思い出深い書籍のうちの一つである。現在取り組んでいる、とある住宅プロジェクトの設計に当たって最近本棚から引っ張り出してきた。

この本は日本の住宅において失われたものについて書かれたものである。

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中川武『日本の家 空間・記憶・言葉』TOTO出版 2002年

境界空間、仕切り、場、部位、しつらい、素材、象徴という章に分け、それぞれ庇や柱、格子や囲炉裏など様々な部分の要素についてフォーカスして、その成り立ちや役割が語られている。歴史の流れの中での人々のコミュニケーション方法の変化や、社会的立場の別による生活習慣の違いが、それぞれの要素における形態や形式の形成に深く関与している。食料の保存方法や儀礼に関わる変換の歴史の中で、日本の住宅における部材や要素や構成がいかに変化し、失われていったかということを理解することができる。

著者の中川武氏は建築史家である。建築史の考え方の基準は「数世紀に渡る長い時間をかけて変化する異質な時間の構造」だということから「建築を生成、発展、衰退の変化の過程として考えるー建築をめぐる時間の構造」が、主たるテーマとなる。このような大きな流れの中での住宅様式の近代化について「失われた懐かしいもの」に焦点を当てながら解き明かしてく内容だ。

ここでは<境界空間>や<象徴>の章に書かれている「生と死」について取り上げたいと思う。

書籍の中では、住宅の中から失われたもののひとつに「生と死」がある、と書かれている。

確かに、出産を家の中でしていた祖父母の世代と比べ、今は自宅で出産する機会などほとんどない。

また、仏壇に至っても都市部の住宅では柱間に備え付けのものはほとんど見なくなってきた。現代人にとって「生」や「死」を意識するのはお盆や法事など年に数回の機会しかない。「ハレとケ」と呼ばれるように、日常と非日常の境目が明確であったのは「生」や「死」が普段の暮らしの中に溶け込んで存在していたからだということを前提とすると、生活の様式が変化した現代住宅の中からそのような行事や要素が消えていった事実も想像に容易い。

何かを得るためには何かを棄てなければならない。

住宅様式の近代化の過程で、私たちは多くの懐かしいものを失ってきただろう。

それは時代に即応した新奇性や性能など、新しい何かを得るためであった。

かつての失ってしまった懐かしいものへの気持ちほどには、新しいものに心が動かないのである。

著者はこうした喪失感や考え方の中に、住宅にとって大切なものを考えるヒントがあるのではないかと語っている。

でも、田舎には当然まだまだ残っているのである。

私は今、広島県三原市の山奥のとある民家の改修・新築プロジェクトに取り組んでいる。現在は誰も住まなくなってしまった祖父母の家を改修し、自分たちの子供世代に引き継ごうとするプロジェクトである。

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広島 蔵宗の家

地方にはよくある話かもしれないが、誰もいなくなってしまった空き家とどのように向き合うか。解体するのにもお金がかかるので、そのまま放置されているケースが多い。自治体としては活用方法のひとつに宿泊施設を作ることや地域に開くことで地域活性化の可能性に期待しているが、ここで問題になるのは敷地内にあるお墓である。敷地の中に先祖の墓がある以上、そこはとても個人的な領域となり、その中でどう建築を生かし繋いでいくかということが課題になる。

これまで色々な活用方法を考えてきた中で、親族用の田舎の家として再生するだけでは何の解決にもならないのではないかと考えたこともあった。しかし、この中川武氏の書籍を通して思うことは、「生」や「死」と隣り合わせにある暮らしてこそ、現代の生活から失われてしまったことを繋ぐ行為であるということ。その意味において、敷地内にお墓があり、家の中に仏壇があるというこの昔ながらの民家は、次の世代の子供達にとって、先祖と繋がるための大変意義深い場所になると考えている。

現地調査などでこの家を訪れるたびに、先ほどまで祖父母がそこで洗濯を干していたかのように、時間が止まったままだ。だから自然と「ただいま!」と言う。何かものを借りるときには「これすぐ返すからね」と声をかける。ささっとスーパーでお供え用のお花やお菓子を買う。つまり、「生」と「死」が自然な形ですぐ隣に存在しているのである。

ちょうど今、興味深いことに別の案件では「位牌を置くための小さな家」のデザインを任されている。依頼の内容は普段何気なく家の中におけるようなカジュアルな仏壇であり、従来私たちがイメージするような柱間の作り付け型仏壇や、厨子型仏壇のような仰々しいものではない。インテリアに溶け込んで他人には気づかれないけれど、普段からそこにある「お洒落」なものであるべきで、身近な人の「死」をいつも隣合わせで感じるためのものである。これを考えると、古代仏堂の儀礼から始まり様々な変化を遂げて今日に至る仏壇は、もはや存在自体そのものがなくなるか、あるいはさらなる縮小化またはライフスタイルに合わせた装飾化を伴って、逆に必要とされている時代に来ている気さえもする。

住宅とは何かと問われて答えるのは難しい。住宅を象徴するものは何かという問いであれば「家族」が一つの答えとなる。

現在、住宅から生と死が消失つしつつあり、社会性や、地縁から縁遠くなって久しい。

この住宅からの象徴の喪失こそ、伝統的な日本住宅の衰退の始まりだったのではないだろうか。

密かな対話の場所である神棚や仏壇は「生」が日常的に「死」とともにあることを示唆してくれる要素であった。

「生活空間の中に内面的なコミュニケーションの場所や記憶に直結する磁場を持つこと—記憶との対話のための場所を持つこと」は現代の住宅にとって大切なことだと気づかせてくれる一冊である。