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日本とドイツにおけるコミュニティとスペースと人々との関わり

今回は、前回のナンシーさんのインタビューで登場した「迷宮堂」の代表メンバーであり、ドイツのライプツィヒで「日本の家 ( Das Japanische Haus e.V. )」というコミュニティスペースも運営されている大谷悠さんからお聞きした、日本とドイツにおけるコミュニティとスペースと人々との関わりについてのお話を2回に分けてお送りしたいと思います。

大谷さんは東京で生まれ育ち、千葉大学の建築学科を卒業後、2010年にドイツに渡り、2011年に仲間と共にライプツィヒの空き家を活用してNPO「日本の家」を立ち上げ、ライプツィヒでの活動や行政と住民の都市をめぐる運動をもとにした論文を執筆して2019年に東京大学新領域創成科学研究科博士後期過程を修了。その論文をベースに書かれた著書『都市の〈隙間〉からまちをつくろう』が2020年に学芸出版社から発売されています。

そして現在はヨーロッパと日本を行き来しながら、ライプツィヒの「日本の家」、広島県尾道市で改修中の「迷宮堂」、ジョージアのトリビシにある「Uzu House」という3都市に3つの交流拠点をつくり、その国と地域の課題に挑むような活動を展開するフルハウスプロジェクトなどを行っています。

大谷さんの著書 「都市の〈隙間〉からまちをつくろう」/ Das Japanishe Haus e.V. のインスタグラムより

山本:私はベルリンに住んでいた頃に大谷さんと知り合い、以降何度かライプツィヒの「日本の家」を訪れさせていただいているのですが、ちょうどその頃(2015年〜2018年)はドイツに多くのシリア難民が流入してきて、様々な軋轢が目に見えて現れ始めてきたときでした。しかし、ベルリンに住んでいても難民を運ぶバスやデモ運動、そして美術館やギャラリーで難民問題を題材にした作品を目にするくらいで、直接、難民の方と話す機会は中々なかったのですが、「日本の家」で開催されている「ごはんの会 (Küche für Alle) 」で若い難民の方々がライプツィヒに住んでいるドイツ人や移民の人々と一緒にご飯を作って食べながら交流している姿を見て衝撃を受け、さらに難民の若者の中には大学を出た高学歴のエリートや、英語を話したり、プログラミングができたりする優秀な人々が多く存在することにまた衝撃を受けて、私が難民という言葉に対して抱いていたイメージが打ち砕かれた鮮烈な経験があります。

「日本の家」はもともと日本人などの移民や難民支援を目的としていたわけではなく、結果的に、現地の人々と移民や難民の人々が交流を行う場になっていったのだと私は認識していますが、最初はどのようなきっかけや目的で「日本の家」を立ち上げられたのでしょうか?

大谷:きっかけは100%自分のためでした(笑)。

2011年初頭はドイツにきて1年ほどたち、仕事の契約も切れてすることがなかったんです。本当に、朝起きて「さて、今日はなにをしようか、天気が悪いから家にいようかな」とか、そういう怠惰な生活をしていたときでした。ドイツ語もまだできず、友達もいなくて。でもまだビザは残っていたし、貯金もあった。「それなら日本に帰るまえにもうちょいなんかやってみるか、そうだ、空き家がこんだけたくさんあるんだから、一つくらい安く借りれるだろう。イベントやパーティーでもやったら人が来てくれるかもしれない。友達もできるかな?」という、すごく私的な理由でした。

それでその時の唯一の友人である日本人のアーティストと建築家の人に声をかけて、3人とも日本人だったので、名前も「日本の家」にして。空き家を探していたら、ライプツィヒに空き家と利用希望者を仲介してくれる団体があったので、そこに企画書を送ったら次の日に電話がかかってきて「これは面白そうだね!ぜひ物件を用意するからやってよ!」と言われ、あとはトントン拍子に進んでいきました。

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日本の家とそこに集う人々。右端に写っているのが大谷さん。

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ライプツィヒの中心市街地から少し離れたアイゼンバーン通りに面した日本の家。建物の赤い丸が目印。

山本:ベルリンで住む家が中々見つからず、短期貸しの物件を転々とさまよい歩いていた私からしたらとても羨ましい話です。

ライプツィヒはベルリンから比較的近い都市ですが、私が住んでいるときの二つの都市の状況は大きく異なっていました。ここ数年のベルリンは流入してくる移民や難民で溢れて深刻な住宅難に陥っており、お金のない若者が自由にできるようなスペースが中々ない状態なのですが、一昔前のベルリンを知る人に話を聞くと、ベルリンも20〜30年ほど前までは空き家や格安物件が多く、そうした物件にお金のないアーティストやミュージシャンなどの若者が入り込んで好き勝手やって、現在のベルリンに花開いているカルチャーの下地を作っていったとのこと。

私が初めて訪れたときに見たライプツィヒは、話に聞いていた黎明期のベルリンの姿そのもので、地下室で勝手にパーティーを開いている人たちもいれば、廃墟を占領して勝手に住み込んでいる若者のコミュニティがあったり、子供達のためや移民難民のための福祉的な場所を開いている人もいて、街に住む人々がそれぞれのやりたいことを空き家や廃墟などのスペースを使って思い思いに体現していました。

そんな〈隙間〉だらけのライプツィヒにできた多様なスペースの中の一つに「日本の家」がありますが、「日本の家」はライプツィヒに住む人々や訪れる人々からはどのような場所として認識されているのでしょうか?

大谷:立ち上げてから最初の数年は、アート・建築・日本文化などに関するイベントを行っていたので、「日本人のいるスペース」というイメージだったと思います。

それがガラッと変わったのが、2013年の春から始めた「ごはんの会」でした。参加者と一緒にごはんを作って一緒にたべる、お代はカンパ制で、余裕のある人はお金をいれて、ない人は入れなくていい、というとてもシンプルなイベントです。これを毎週やるようになったことで、日本に特段興味があるわけでも、アートや建築の専門家でもない、近所のおじさんおばさん、外国人、学生、旅行者、まちでフラフラしているひとなどが来るようになりました。「日本人のやっているアートスペース」が「まちかどの交流拠点」に変化していったのです。

ごはんはいつも決まった人が料理するのではなく、ほぼ毎回料理人が変わり、今思い出せるだけでも、日本、ドイツ、イタリア、スペイン、ブルガリア、中国、台湾、韓国、ロシア、アフリカ、メキシコなど本当に世界中の人々が「日本の家」にきて母国の料理を振る舞ってくれました。特に2015年以降、難民がドイツに流入してくると、シリア、アフガン、イラク、モロッコなどの中東から来た人が台所に立つようになり、「日本の家」なのに美味しい中東料理が食べられる、というような状況も起こりました。

ただ、料理が毎回美味しくできるわけではありませんでした。作る人によって、クオリティがまちまちで、ときに鍋が全部焦げて大失敗、なんてこともおこりました。でも、それがとても重要だったのです。いつも同じ人が高品質な料理を作るようになってしまうと、参加者が「シェフと客」に分かれてしまい、他の人がキッチンに立ちづらくなります。でもクオリティがまちまちだと、「なんだ、こんなレベルのごはんでもいいのか、じゃぁ次回は私もチャレンジしてみようかな」ということになります。実際、「日本の家」にはじめてきた人が、次の週には台所に立っている、なんてことがざらにありました。高いクオリティを保つ、ということは重要ではなく、むしろ交流拠点においては参加者を選別することになりかねない。これは料理だけでなく、空間づくりやアートイベント、コンサートなどに関しても同じです。おしゃれでかっこいいことばかりやっていると、どうしても「プロと素人」という立場ができてしまう。そこで失われるのは「これならじぶんにもできるかもしれない!やってみよう!」というモチベーションです。まぁ、といって、逆にクオリティが低すぎても魅力がなくなってしまい大問題なのですが(笑)。そこのバランスを取ることが自分の運営者としての役割なんだなと自覚していきました。

「ごはんの会」の様子の映像Youtubeより

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日本の家の前で寛ぎながらご飯を待つ人々

山本:「日本の家」で行われていた「ごはんの会」には本当に色々な人がいて、地元のおじいさんやホームレス、ひどい酔っ払い、大学の教授、旅行者や難民など、普段ならあまり接点のなさそうな人々がご飯を作ったり食べたりしながら交流していました。飛び交う話もバラバラで、下品なジョークを言ってる人たちもいれば政治や哲学などの難しい話をしている人たちもいる、とてもカオスな空間でした。

また、参加者が「シェフと客」に分かれていないだけでなく、福祉団体での炊き出しなどでありがちな「施す側と施される側」に分かれていないのも特徴的でした。食べる人と料理する人が毎回変わる流動的な状況と、誰がいくら払っているのか分からない匿名的なカンパ制が参加者の間に分断やヒエラルキーが生まれることを防いで、交流の中にダイナミズムを生み出しているのではないかと感じました。カンパでお金をあまり払えないことに負い目を感じている参加者が、その分ご飯を作ったり手伝ったりすることに積極的に関わることで罪悪感なくその場に居られるなど、お金やルールだけに依存せず、それぞれに合ったかたちで参加できることが参加者の多様性にも繋がっているのでしょう。中には「私はごはんの会の運営を手伝っている」ということを免罪符にしてタダ酒を呑みまくっている人もいたようですが(笑)。

現代社会が直面している課題の一つに、いかにして多様性を社会の中に抱合していくかということがあると思います。同調圧力の強い日本社会はその点でかなり出遅れていますが、「日本の家」での「ごはんの会」の様子は多様性のある社会を体現したかたちの一つだと感じました。その背景には、「日本の家」だけではなく様々な理念や価値観のもと運営されている多様なスペースが他にも複数あり、それらのスペースが価値観の異なる人々同士が共生していく上での緩衝地帯として機能しているのではないかと思ったのですが、大谷さんはどう思われるでしょうか?

大谷:そうですね、緩衝地帯のように「日本の家」が機能していることもあると思います。ただ、現実はかなり大変です。多様な人に開かれているからこそ、カンパ金を盗む人がいたり、女性にセクハラする人がいたり、人種差別的なジョークを平気で口にするひとがいたり。喧嘩もしょっちゅう起こるし、アルコールやドラッグでとんでいる人が乱入して暴れまわることも何度かありました。多様な価値観や背景の異なる人たちが共生する、というのはとても重要だと思うのですが、いつもうまくいくわけではなく、むしろうまくいかないことのほうが圧倒的に多く、コンフリクトやトラブルが絶えず生まれます。でもそれが本当の多様性の姿なんだと。多様性はとてもしんどいです(笑)

それでも、そういう多様でカオスな場に身を置くことで学べることはとても多かったですね。運営に深く携わってくれていた人が、じつは金銭的に困窮していて、裏で「日本の家」の物やお金を盗んでいたとわかったとき、自分はどうするべきなのか、とか、あるドイツ人のおじさんがジョークのつもりで発した一言が外国人の友人の心を傷つけたとき、自分はどうするべきなのか、とか。人種差別とかジェンダーとか格差とか、本で読んだりテレビで見たりと、どこか遠い世界のような気がするものですけれど、「日本の家」では毎日それがテーマになるので向き合わざるを得ない。向き合ってみると、どうするべきなのかすぐに答えがでるわけではない。現場で試行錯誤しつつ、仲間と話し合いながら、ああそうか、世の中本当にいろんな人がいるわけで、このテーマはずっと付き合っていかなくてはならないんだなと気づく。その気づきが最初の一歩としてとても大事なんです。そういう気付きはポジティブな経験だけで得られるわけではない。いいとこ取りできないんですよね。

たしかに日本は、ライプツィヒのように「多様性」がはっきりと見えることが少ないというか、わかりづらくなっているとは思います。コミュニケーションもドイツのようにお互い意見を出し合って議論するというよりも、同一性とか共感を前提としたものになりがちですよね。それ自体、常に悪いことだとは限らないですが、例え同じ日本に生まれ、日本に育ったとしても、よく見るとやっぱりそれぞれが抱えているものは異なるし、視点も異なる。特に日本で暮らす外国人や「ハーフ」の人々、あるいは性的マイノリティの人などは、とりあえず「普通」に合わせることを強いられるわけで、その人たちの抱えている苦労は大きいと思います。日常生活におけるコミュニケーションのなかでのちょっとしたズレを、「普通」に合わせてなかったことにするのではなく、どれだけ敏感に気づいていけるか。日本のコンテクストではそういう細やかで繊細な視点が重要なのかなと感じています。

山本:「日本の家」は色々な人が交流する面白い場であるのと同時に、様々な葛藤や問題に直面する多様性社会の最前線でもあるのですね。

日本でも、日本で働きながら生活する外国出身の方が増えていて、都市部のコンビニなどでバイトする人、農村部で農作業に従事する人、建設業で働く人、介護に携わる人など、海外から働きに来ている人の姿を見かけることが珍しくなくなりました。にも関わらず、日本では日本で暮らす人々と海外から働きに来た人々が交流する「日本の家」のような場やコミュニティはほとんど見かけません。彼らが職場以外での日常生活をどのように送っているのか、同じ街に住んでいるはずなのに全然見えてこない。自分がもし海外から日本に働きに来た人だとしたら、どこで日本人と交流するだろうかと想像しながら街を見渡すと、海外から働きに来た人が職場以外で日本人と気軽に交流し、対等に話せる場がほとんどないことに気づいて愕然とします。

ヨーロッパは人と物とお金の自由な流動を謳って新たな経済活動圏を作ったということもあって、本当に色々な国の人が国境を超えて生活していました。私がベルリンのスタジオで働いていたときも、クライアントがドイツ人やフランス人、同僚がイタリア人やメキシコ人で、材料を発注した工場で働いている人がポーランド系移民、同じシェアハウスに住んでいる同居人がベトナム系移民だったりと、それぞれが持つ背景の多様性に目が眩みます。そして何かとパーティーを開いていて誘ってくれたり、スタムティッシュというドイツ語を勉強したい外国人と外国語を勉強したいドイツ人が交流する飲み会などもあったりして、仕事以外でも色々な人と交流する機会が沢山ありました。

みんなそれぞれ文化や価値観が違い、ノリやリアクションも異なるので、日本人が得意とする「空気を読む」で対応できることは少なく、自分の意見をはっきりと主張しないとコミュニケーションが成り立ちません。意見をはっきり主張すると当然対立することも多くなります。ただ、意見が対立したときに、日本のように「みんなそうしてるから黙って従え」と言われるのではなく、ちゃんとそれぞれの立場や理由を話して理屈で妥協点を話し合っていくことができるのは私にとっては生活しやすいところでした。

大谷さんが「日本のコミュニケーションを同一性や共感を前提としたもの」と言われているように、日本人の「空気を読む」スキルは自分と近い生活環境や価値観を持っている人には有効に働くかもしれませんが、自分とは違う価値観を持ち、違う環境で育った人に対しては「私たちはこうだからお前もこうしろ」という押しつけでしかないですよね。協調性とは本来自分とは違う価値観や立場の人とお互いに妥協点を探しながら共生していく能力を指す言葉のはずですが、多くの日本人は同調圧力に従うことを協調性だと勘違いしているように思います。

海外からの労働力にも頼り、多様化していく社会の中で協調性を持って他者と接することは、「とてもしんどい」はずですが、多くの人が外国人労働者を「数年経てばいなくなる出稼ぎの人」として線引きし、上手く日本人に合わせられない外国人は切り捨て、自分たちには関わりのない人として交流を断つことで、他者と接するしんどさを回避しているのかもしれません。

「空気を読む」ことに依存することをやめ、他者と向き合い交流する本当の協調性を身につけていくには、結局自分とは異なる背景や考え方を持つ人々と接し、理解し難い他者の存在に直面することを繰り返していくしかないのだと思います。

ドイツの「日本の家」、日本の「迷宮堂」、ジョージアの「Uzu House」という3つの交流拠点を作るフルハウスプロジェクトには、理解し難い他者の存在に直面する機会を作るという側面もあると思いますが、大谷さんが見てきた中で、「日本の家」で展開される多様性に揉まれていく内に、新たな価値観を得た人や大きく成長した人、もしくは逆によりいっそう偏屈になってしまった人など、スペースが人に大きな影響を与えたことはありますでしょうか?

大谷:そうですね、拙書『都市の〈隙間〉から~』にも書きましたが、「日本の家」の運営に関わった人たちはポジティブな経験とネガティブな経験の両方を体験することで、多様性や共生に関する気づきを得ていたことがわかっています。みんながみんな自分の体験をポジティブなものとして捉えているわけでは決してありませんが、少なくとも何かを考えたり感じたりするきっかけにはなっています。

そしてより重要なことは、これも拙著に書きましたが、「日本の家」によって普段は関わりを持たないような人々が一緒に手を動かして料理をしたり空間を作ったりイベントを運営することで、なにかしらの繋がりをもった、という点です。これは会社やビジネスにおける利害関係でのつながりではなく、政治組織や宗教組織のような共通の理念でつながった人間関係でもありません。ある空間にともに投げ入れられ、たまたま一緒になったという「偶然性」によって、人間関係ができていったのです。

アメリカ人の哲学者リチャード・ローティ(Richard McKay Rorty)は、「人権」を「普遍的な価値」として世界に広めることの限界を説きました。簡単に言えば、「人権は重要だ」ということをお念仏のように唱えても、AさんがBさんを「人」と認識していない場合、Aさんにいくら「人権」を説いても意味がないということです。Aさんからみて「人」として認識していないBさんというのは、例えばニュースでしか見たことがない「難民」であったり、見た目で話が通じないと思っている「外国人」であったり、常識やルールを守らない「はぐれもの」であったり、差別されるべき「異教徒」であったり、男を立てて家庭を守るべき「女性」だったりするわけです。ローティに言わせれば、Aさんに必要なのはリベラルな立場からの頭でっかちなお説教ではなく、インテリの立場からの論理的な「正しさ」によるマウンティングでもなく、AさんがBさんとつながり、かれらを血の通った人として認識することです。そこから、「自分はたまたまAになったが、場合によっては自分はBさんになっていたかもしれない」という気づきを得て、Bさんが様々な違いをもちつつも、結局は自分たちの仲間であると認識するチャンスが開かれる。「日本の家」のような空間に多様な人々が偶然居合わせ、一緒に料理をしたり、食べたり、音楽を演奏したりすることが、その最初の一歩になるのです。私はそういう経験(それは常に心地よいものだとは限りませんが)ができることこそが都市の魅力であり、まちづくりの本義は、まさにこのような体験をまちを舞台に繰り広げていくことなんだと思っています。

山本:私がライプツィヒで見た「日本の家」はまさにそういうところでした。他者との交流が「とてもしんどい」だけのネガティブな体験ばかりだとわざわざ交流しに行こうという気も失せてしまいますが、ご飯を食べたり音楽を楽しんだりという楽しくポジティブなイベントを介しながら他者と衝突したりカルチャーショックを受けたりするネガティブな経験もするというそのバランスも重要なのでしょう。

大谷さんは現在、尾道に移住し、私も改修を監督する立場として関わらせていただいている「迷宮堂」のリノベーションに勤しまれています。次回は、その「迷宮堂」についてのお話をお聞きしていく予定ですが、次回の話に移る前に大谷さんがいない現在の「日本の家」は誰がどのように運営されているのかについてお教えください。

大谷:運営から離れてもう4年くらいたちましたが、いまでも「日本の家」は続いています。立ち上げ当初は日本人グループ、ごはんの会をはじめてからは近隣の住民たち、欧州難民危機以降はアラブ系の人々、そして今ではドイツ人の若者たちが運営を引き継いでいます。中心メンバーがどんどんと入れ替わることで、参加者やイベントの種類、場の雰囲気が変化してきました。これからも、時代や都市の変化に対応してしなやかに変化していく、そんな場所であったらいいなと思っています。

山本:インタビューにお答えいただきありがとうございました。次回も引き続きよろしくお願いします。

大谷さんの著書「都市の〈隙間〉からまちをつくろう」では、「日本の家」についてだけでなく、工業都市として栄え、ベルリンの壁崩壊と共に急激に衰退したライプツィヒの行政が行ってきた都市政策とそれに対する住民たちの反応や運動についても詳しく述べられています。急増していく空き家に対して行政や住民が取った行動の数々は、日本の衰退していく地方にも応用できるものがあり、都市政策やコミュニティデザインを行う方には参考となるおすすめの一冊です。


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