昨今、世間では「デザイン思考」や「企業とデザインの関係」、「インハウスのデザイン集団の作り方」などビジネスにおける「問題解決のツール」としての広義でのデザインがこれでもかという位に脚光を浴び、もてはやされている。

コサンルティングもビジネスにおける問題解決を売りした商売であるが、デザインにおける解決方法は数値化ではなく美的感覚を伴って機能性を網羅しながらユーザーやクライアントの問題が知らぬ間に解決されているといった魔法のような手法が魅力なのだと思う。

かくいう店舗設計者の自分も、今まではあえて避けていた上記のような啓蒙本をここ数ヶ月の間に2、3冊手取って読んでみたりもした。それは、自分にとって今年ほど「デザイン」という行為に苦痛を伴った年は無かったからに他ならない。
ヒントとなる物は片っ端から吸収してやろうというプライドすらない意欲がそうさせたと言っても過言でない。納得のいくデザインができなかったし、提案したデザインが受け入れられない事が多かった。

ごく一般的なデザインの「格好いい箇所を見せるより、格好悪い箇所を絶対みせない」というセオリーからすればデザイナーが上記のような思いを吐露する事は今書店に並んでいるデザイン関連の著者に言わせばタブーに近いだろう。
ただ結論から言うと、抱えてる問題、タイミングにもよるのだろうが自分が手に取った本には今の自分置かれた現状を解決してくれる特効薬のような物は存在しなかった。問題解決のツールとして注目されているデザインを生業にしているデザイナがー自身の問題を解決できないのだから自分でもちょっと滑稽に感じてしまう。

そんな時や、そんな時にも限らず、学生の頃から事あるごとに訪れている空間がある。ラファエル・ヴィニオリ設計の「東京国際フォーラム ガラス棟」だ。

東京のど真ん中、有楽町駅と東京駅を結ぶなだらかな曲線をえがく線路に沿ったガラスの要塞のような建物だ。そしてガラス越しに連続して見える船底形の構造体がガラス棟をよりガラス棟たらしめている。ガラス棟と対をなすA、B、C、Dホールの中間地帯(バッファゾーン)である地上エリアの欅やアートワークの横をすり抜けてガラス棟の内部に進入すると、理屈もへったくれもないその瞬間は訪れる。

Tokyo International Forum1

地上を歩いていたはずが、いつに間にかに海底にワープしてしまった錯覚に陥る。 船底型の構造体は悠然と泳ぐ巨大なくじらの腹部にみえて、ガラスと鉄という無機質な 素材で構成されているかずの建築がまるで生きているかのように感じる。 これがデザインだと純粋に思える高揚感と癒しが混在するなんとも形容できない感情さらに冒険は続く。

ガラス棟は船底型構造の他にもうひとつ大好きな特徴がある。それは地上階から最上階まで永遠と続くスロープである。正式な距離は知らないが大人の脚でも最上階の新幹線、山手線、京浜木東北線、東海道線の無尽蔵な往来が見渡せる”THAT'S TOKYO”を体感できるラウンジまでは8分はかかる。

東京駅側にあるそのスロープのスタートは巾3m程、軒高は優に15mを超えている、それが左側の壁面沿いに歩き続けると、ガラスウォール側の空間を斜め見ていた右側の壁徐々に高くなり、視線も遮られ、照度も落ちる。ついにはスロープの巾2m、軒高2mのまで圧迫された空間に追いやられ歩行者は方向の転換を余儀なくされた時に、ガラス棟最大の仕掛けが待っている。

Tokyo International Forum2

暗から明。
狭から広。
ダンスミュージックのサビ直前の四部休符。 抑圧からの開放により静かな高揚感に包まれる。

Tokyo International Forum3

高揚感が訪れた後は、はひたすらガラスウォール側のなだらかな曲線に沿って登山のように登り詰めていく。 いつしか地上広場の欅を上から眺め、大空間を横断する架橋の寄り道をしながら浮遊感をひたすら満喫する。登り終えたところで今までの道のりを振り返ると、そのスケールの大きさを実感せざるを得ない。そのとき時にはいつも達成感と共存する爽快感によってちょっとした問題は解決されている。そしてこれが「デザインだ」と思い出させてくれる。

これほどに「デザイン」問題解決のツールとしてビジネスのシーンでちやほやされている今、消耗品としての賞味期限のあるデザインに売る事で、仕事を永続的に得る方法もありなのかもしれない。 ただし、賞味期限の長いデザインも産まれないとデザイナー自身がカタルシスを得られなくなってしまうのではないかとも感じる。

果たして、いつの日か自分は「東京国際フォーラム ガラス棟」のような理屈抜きで他人を勇気づけ、癒すようなデザインを創造することができるだろうか。