Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language.

対話型鑑賞とは何か?

「対話型鑑賞」という鑑賞方法を聞いたことがあるでしょうか?学校などの教育現場や美術館、医療分野などでも行われたりしているほか、2017年にベストセラーになった《世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?》(山口周 著)で紹介されたことにより、ビジネスの分野でも注目されるようになった鑑賞方法です。

「対話型」と呼ばれているように、この鑑賞方法の特徴は進行役(ファシリテーターやナビゲーターと呼ばれる司会者)が参加者に「この作品を見てどう思いましたか?」などの質問を投げかけていきながら参加者の意見や感想を引き出し、それぞれの意見や感想を述べ合うことで思考力やコミュニケーション能力を向上させたり、作品への多様な見方や理解を広げていくという点がこの鑑賞方法の特徴として挙げられます。

対話型鑑賞の源流となっているのは、MoMA(ニューヨーク近代美術館)で教育部部長をしていたフィリップ・ヤノウィン氏が開発したメソッドです。

1980年代後半に知識偏重の鑑賞教育に対する反省から、MoMAでVTC(Visual Thinking Curriculum)と呼ばれる対話によるアートの鑑賞法のカリキュラムがヤノウィン氏を中心として作られました。

そしてヤノウィン氏は1995年にVUE(Visual Understanding in Education)という非営利団体を設立し、認知心理学者のアビゲイル・ハウゼン氏らと共に心理学的な教育理論をVTCに加え、幼稚園から小学6年生までの授業カリキュラムとしてさらに厳格にマニュアル化したVTS(Visual Thinking Strategies)という鑑賞方法を開発します。

日本にはVTCの開発に参加したアメリア・アレナス氏が1995年に来日してVTCをベースにした対話によるアート鑑賞法を実践してみせたことがきっかけで美術関係者を中心に広まり、アメリア・アレナス氏の来日に尽力した京都芸術大学(前・京都造形大学)教授の福のり子氏が2004年に立ち上げたACOP(Art Communication Project)がヤノウィン氏本人の指導のもと三期一年のセミナーを通してVTSを体系的かつ本格的に学ぶ進行役向けのセミナーを開くなどして、日本での対話型鑑賞の普及につとめています。

そうして広まった対話型鑑賞ですが、VTCとVTSには微妙な違いがあり、さらにはVTSを学んだ人が独自の方法論を組み込んで作った派生型の鑑賞方法などまで出てきていて、それらが全てまとめて対話型鑑賞と呼ばれているため、「対話型鑑賞が結局どういうものなのかよくわからない」という混乱が生まれているように見受けられます。

そこで今回は対話型鑑賞を学びながら実践している中で、対話型鑑賞の混乱や難しさをまさに今実感しながら鳥取県で活動されている蔵多優美さんと話をしながら、対話型鑑賞について考えてみたいと思います。

adf-web-magazine-taiwagatakanosyo-kurata

蔵多さんが対話型鑑賞を行なっている様子

山本:それでは蔵多さんよろしくお願いします。

蔵多:よろしくお願いします。

山本:まず、蔵多さんはどのような経緯で対話型鑑賞を行われるようになったのでしょうか?

蔵多:地元である鳥取県にUターンする際に何か新しいことが始められないかと思ったのがきっかけでした。

2019年にUターンしたのですが、2025年春から鳥取県倉吉市に新しく県立美術館ができるという話を知り、アートやデザイン系の新たなスキルを身につけて美術館にゆるく関われたらいいなと考え色々調べている内に美術館の教育普及に興味を持ちました。

「そういえば対話型鑑賞というものを聞いたことがあるな」と思い出して、改めて対話型鑑賞について調べ始めたんです。

当時の鳥取県では、対話型鑑賞という名前を聞くことはときどきあっても、実際に体験したり学んだりできる場がなく、どこで学べばいいのかなと思っている内にコロナ禍になりました。

世の流れでオンライン需要が高まったこともあり、オンライン上で対話型鑑賞を行うプログラムに参加したり、山口情報芸術センター[YCAM]で京都芸術大学アートプロデュース学科の伊達隆洋さんが講師となり2日間で対話型鑑賞をレクチャーするというワークショップイベント(鑑賞ナビゲーターキャンプ2021)があったので、参加したりしてみました。

ACOPが主催する対話型鑑賞の本格的なレクチャーは時間やお金がかかり、そこまでして学ぶ必要があるかどうか、まだその時点ではわからなかったので、一先ずお試しで参加してみたという感じです。

2日間という期間では対話型鑑賞の全てを会得することは難しく、ファシリテーターになるための必要なスキルの基本や「深い鑑賞」について考えたり、実践する一歩手前の心構えを抑えるような時間でした。

学校教育の現場や美術館、医療現場などさまざまな場所で行われている対話型鑑賞を、それぞれの場面に合わせて行うにはどうしたらいいのかなど、具体的な方法まではこのレクチャーでは深いところまで分からず、対話型鑑賞の進行役のスキルを身につけることは思った以上に難しいということを実感したのです。

それから半年ほど、月に3~4回ほどのペースで友人知人たちに声かけしてオンラインで対話型鑑賞を企画し、進行の練習をしてみました。

私自身のファシリテーションのスキルアップや参加者に対話型鑑賞を知ってもらう良い機会にはなったのですが、回数を重ねる内に「この対話型鑑賞は誰のために、何のために行なっているのか」という疑問が生まれてきました。

山本:「対話型鑑賞は誰のために、何のために行うのか」というのは、重要なキーワードかもしれませんね。

私も対話型鑑賞を紹介している記事を調べたりいくつか論文を読んでみたりしたのですが、その中に東京女子体育大学の長井理佐氏が書かれた《対話型鑑賞の再構築(2009)》という論文があって、そこでも「対話型鑑賞を通じて何を目指すのかについて、様々な立場から議論することが十分には為されていない」ことが対話型鑑賞をめぐる混乱を生み出す要因になっているのではないかと指摘されていました。

対話型鑑賞の中でもよく聞くVTSは、美術に関する専門知識が十分にない学校の先生などが幼稚園から小学6年生までの子供向けの授業で使えるようにするために厳格にマニュアル化したものであり、進行役(ファシリテーター)が鑑賞者にする質問は「この絵の中でどんなことがおこっていますか?」「あなたは、何を見てそう言っているのですか?」「もっと発見はありますか?」の3つに限定されていることや、作品に対しての説明も基本的に行わない点が特徴だと思います。

よく「対話型鑑賞は誰でもできるようになります!」とか、「対話型鑑賞では3つの質問しかしちゃダメなんでしょ?」とか言われているのはこのVTSのことですよね。

一方でVTCをベースにした対話によるアート鑑賞法では、作品の内容や鑑賞者の知識レベルに応じて作品に関する知識を鑑賞者に対して適宜与えていくことで、対話と作品に対する理解をより深めていくこともあるとのこと。

どちらも対話しながら鑑賞することには違いありませんが、VTCの鑑賞法には「対話を通して美術をより深く学ぶ」という側面があるのに対し、VTSのマニュアルは「対話を通して美術を学ぶ」という側面が薄まり、代わりに「美術を通して対話や思考方法を学ぶ」ということに重点が置かれているように見えます。

でも、本来「美術を学ぶこと」と「美術を通して(コミュニケーションなどを)学ぶこと」って違う目的のものですよね。

蔵多:そうですね。

山本さんが感じられたように、対話型鑑賞には美術鑑賞を通してコミュニケーションスキルを上げるといった側面もあります。

作品を媒介にしてコミュニケーションを学ぶというワークショップ的な要素も対話型鑑賞の面白さとしてあるんですが、実際に対話型鑑賞を企画してみて、美術に詳しい参加者が対話型鑑賞に混じっていたりすると、その人の知識が加わって対話がすごく飛躍することもあれば、参加者同士の感想紹介だけで終わり、美術に詳しい参加者には物足りない感じだったこともありました。

YCAMでの研修では、ACOPでのやり方も併せながらレクチャーしていただきましたが、「深い鑑賞」というものが対話型鑑賞の目的の一つとして示されていて、鑑賞する作品をただのコミュニケーションツールにしてしまわないための心配りをしながら進行役が対話型鑑賞を組み上げていく必要性も教えられています。

そうしないとコミュニケーションのためにアート作品をただ利用するだけになってしまいますから。

それと、ACOPではVTCやVTSから発展させて、3つの質問プラスアルファでファシリテーションをやっていこうとレクチャーされているように思います。教員の方は免許更新や単発でのイベントなどで教えを受けて、「3つの質問以外もやっていいんだ!」となっている方も多いのではないでしょうか。

ただ、プラスアルファの手法を取り入れると難易度が上がるようにも感じますので、作品を深く鑑賞するためには進行役にディスカッションができる知識やスキルがとても必要だなということを実際にやってみて強く実感しています。

山本:論文には「対話型鑑賞における美術史的な知を排除しがちな傾向への疑問も時に提示される」とも書かれていました。

どんなふうにでもご自由に解釈してください、という感じの抽象的な作品なら鑑賞者がどんな感想を述べてもいいでしょうが、作家の意図やメッセージが明確に込められている作品だと、鑑賞者の感想や解釈が作家の意図やメッセージと大きくかけ離れてしまうということも起こり得ると思います。

となると、どんな作品でも対話型鑑賞ができるというわけにはいかなくなるし、下手をしたら作家の意図やメッセージとは真逆のことが作品の解釈として述べられて、それが対話を通して広まってしまうこともあり得るわけで、そうなりそうなときに作家の意図やメッセージをどれだけ解説すべきか、また、そもそもそうならないように対話型鑑賞の参加者のレベルや目的に応じた作品をどう選定するか、ということが対話型鑑賞のものすごく重要な問題になってくるんじゃないかと対話型鑑賞に関する説明や論文を読んでいて思いました。

蔵多:まさにそうなんですよね。

鳥取大学医学部地域医療学講座というチームがアートを通した学びを扱っていて、その一環として対話型鑑賞をしてもらえませんか、という話が私に来たので、実践できる機会がもらえるのであればぜひやらせてくださいと引き受けたのですが、その際、医学のための対話型鑑賞とはなんだろうか、と凄く考えました。

ちゃんと切り口を組み立てていかないと対話型鑑賞が成立しないと思ったんですよね。

先生や学生の皆さんに凄い美術作品を鑑賞してもらい、その良し悪しを語り合ってもらうというのはちょっと違うように感じて。

山本:医療の現場などで求められている対話型鑑賞はまさに「美術を学ぶこと」ではなく「美術を通して学ぶこと」ですよね。

教育の現場やビジネスへの応用で対話型鑑賞に求められているのも「美術を学ぶこと」ではなく「美術を通して学ぶこと」というケースが多いのではないかと思います。

蔵多:私がYCAMで研修を受けた数ヶ月後に、鳥取県でも「新しい県立美術館に向けて対話型鑑賞のプログラムなどもどんどん実践していきましょう」という動きが起きました。

鳥取県立博物館で対話型鑑賞のファシリテーターを養成する研修講座をやったり、実際に小学生に向けた対話型鑑賞を行ったりしていたので、それにも参加してみました。

自主的に企画して行っていたオンラインでの対話型鑑賞や医学部での対話型鑑賞、小学生向けの教育現場的な目線からの対話型鑑賞というそれぞれ異なる場での対話型鑑賞をやってみて、進行役が「誰のために、何を目的として対話型鑑賞をするのか」ということをしっかり認識してやらないと、対話型鑑賞はぐだぐだになってしまうとより強く考えるようになったんですね。

そうした経験から「対話型鑑賞ってなんなんだ?そもそも作品を見るとか鑑賞するって何だろう?」という疑問が深まっていったので、地方における美術鑑賞や鑑賞教育の取り組みを研究調査する「アイアイ 」というサイトを立ち上げて、鳥取県内外で鑑賞教育を実践している人々にインタビューを行いながら鑑賞教育とは何だろうということを考えています。

また、2022年8月に VTC/VTS日本上陸30周年記念フォーラム2022 「対話型鑑賞のこれまでとこれから」というフォーラムがあったんですよね。

2023年2月末までアーカイブの記録配信が見られるので、こちらを見てもらった方がより理解できると思うのですが、色々な現場で対話型鑑賞を実践している人々が一堂に会して対話型鑑賞について語る場となっています。

どのように広まり、実践されているのか発表しあったり、対話型鑑賞の問題点について話し合ったりしていて、いろんな実践例を聞けて大変有意義な時間だったのですが、対話型鑑賞の実践内容があまりに幅広く、まだ完全に確立されたものではないのかもしれないということも浮き彫りとなったような気もしていて、「対話型鑑賞とは何だろう」という疑問が更に深まってしまいました。

山本:たとえばアート自体も簡単には定義できなくて一括りにして語ることが難しく、ある程度細分化しながら考えていく必要があると思うのですが、対話型鑑賞の現状にも同じことが言えそうですよね。

蔵多:一言で言えないものを、みんなが各自一言で言おうとしてるから結構複雑になってきてしまっているんだなぁ、というのは思いますね。

そもそも対話型鑑賞という言葉は日本だけで使われているもので、本場のニューヨークではVTSやVTCと呼ばれていますし、現在ニューヨークで行われているVTSの内容も日本に紹介された当初のものとはちょっと変わってきているみたいです。

それと、ワークショップ形式などで行われる対話型鑑賞は一回参加して終わりという企画が多いのですが、対話型鑑賞は本来、何回かにわたって行われる連続したプログラムとして開発されています。

ですが、芸術祭などのイベントで行う対話型鑑賞とか、子供たちを美術館に連れてきて行う対話型鑑賞はどうしても一回で終わるワークショップ形式になってしまいがちです。

そうしたものは美術館や芸術祭に来てもらうきっかけを作るために行われていて、対話型鑑賞の本来の狙いとは目的が異なるように思いますが、それも現状では対話型鑑賞と言うしかないのかなと思います。

山本:そういう色々な状況で行われているものを全て対話型鑑賞と一括りにして呼んでいたら混乱が生まれて当然ですよね。

私もちゃんと調べるまで、対話型鑑賞は知識がない人が感想を言い合うだけの入門ワークショップ的なものだと思っていましたが、実際には入門的な内容から作品のかなり深いところまで踏み込んでいくものまで、ステップがあるんですね。

美術界隈から出てくる対話型鑑賞への批判や苦言も、入門ワークショップ的な対話型鑑賞に対して言われていることが多いのではないかと思います。

だけど「対話型鑑賞とは本来こういうもので~」とか「この対話型鑑賞では美術を学ぶことよりもコミュニケーションを学ぶことを前提にしており~」とか参加者にいちいち説明してから対話型鑑賞を行うわけにもいきませんよね。

蔵多:そうなんですよね。一から説明すると「なんか面倒臭そう」と身構えてしまう人もいるかもしれませんし。

対話型鑑賞のワークショプはいろんな目的やかたちがあるんですけど、現状、対話型鑑賞を体験してもらうための対話型鑑賞、というワークショップが多いのかなと。

教育や医療の現場、ビジネス、発達段階や教育としての対話型鑑賞もあれば、作品の深いところへ行くための思考法的なものとしての対話型鑑賞もあるように思うのですよ。

後者は、アートを学んでいる美大・芸大生やアートを仕事にしているアーティストとか、そのような分野の人たちがしっかりと対話するための時間として対話型鑑賞が活用されるべきだと考えるですが、じゃあ果たしてそれがちゃんと現在の美術系大学とかで活用できているのかというと、全てで取り組まれているとは言い難く、出来ていても少数なのかな、というのが今調べていて見えてきていることではありますね。

山本:確かに、作家で対話型鑑賞を勉強したりやったりしている人というのはあんまり聞いたことがないかもしれません。

あと、ちょっと話がかわっちゃうかもしれないんですが、芸術祭などで対話型鑑賞を行うケースなどでは存命の作家の作品を扱うことになるわけですが、それはそれでまた色々気を使いそうですよね。

蔵多:はい。山本さんも作家として参加されていた鹿野芸術祭2022でも、藤田美希子さんの作品を用いて対話型鑑賞を行いましたが、存命の作家の作品で対話型鑑賞を行うときの私なりの解決方法の一つとして、最後に作家本人にも対話型鑑賞に加わってもらい、作家と参加者が対話する場を作ることを一つの落とし所として用意しています。

作家本人もはっきりと意識していなかったことが鑑賞者との対話の中で見えてきたり、作家の意図が分かった上でも「やっぱり自分にはこう見える」という意見を持つ人がいたりするように、作家が入ることによって答え合わせみたいにならないように対話の場を作ることを意識していますね。

adf-web-magazine-shikano-taiwakansho

写真:鹿野芸術祭2022での対話型鑑賞の様子

山本:そういうケースではどちらかというと「アートを通して(コミュニケーションなどを)学ぶ」というより、「対話を通してアート(および作家)への理解を深める」ということの比重が高くなりそうですね。

蔵多:今回の芸術祭でやった対話型鑑賞とか、ギャラリーでやる対話型鑑賞みたいな、教育現場とは違うところでやる対話型鑑賞とは何か、というのは意識してるかもしれないです。

ギャラリーとかでやる対話型鑑賞は子どもではなく、大人同士が集まることも多いので、子どもの発達を促すような、教育的側面の対話型鑑賞ではないですよね。

はじめまして同士の人が作品を見てお互いの感想を語るという、アートをコミュニケーションツールみたいにしてしまっているような状態になっていることもあるかもしれないですが、そうなりすぎないように、その作家の作品をしっかり見てもらうためにはどうしたらいいか、ということは意識するようにしています。

あと、大人の人同士で対話型鑑賞をするときは、一人で普通に鑑賞しているときとは違う時間をいかにして作るかというのは考えていますね。

自分の意見をしっかり言える人同士の対話型鑑賞というのは掘りがいがあったり、深い視点で鑑賞ができる人が一人いるだけで浅い観点でしか鑑賞できなかった人も深い次元まで連れていってもらえたりすることがあるな、というのをいろんな人と対話型鑑賞をしていて思ったので、そういう時間を作れるように進行役として意識するというのはあったりします。

山本:鹿野芸術祭での対話型鑑賞は私も撮影をしながら見させていただいたのですが、見ていてふと、もし対話型鑑賞にアートに詳しい人が参加して作品の解説を始めてしまったり、自分語りを始めてしまう人がいたりしたらどうするんだろうというのを考えてしまいました。

今回の芸術祭での対話型鑑賞は心象風景的な作品を見ながら、参加者がそれぞれの心象を作品に重ねて対話が進んでいったのでとてもスムーズでしたが、有名な作品や現代美術の作品など、すでに通説的な解釈が広まっている作品で対話型鑑賞をやる場合、作品の解説をし始めちゃう人もいそうですよね。

蔵多:そうですね。

そういった場面が経験する中であったんですけど、やっぱりその人が語ってしまうともう対話にはならないですよね。

その人が言っていることは作品的には正しいんだけど、一方的なギャラリートークみたいになっちゃうんで、そうならないようにどう対話を促すか、というのはすごく大事です。

対話を促すための意識は対話型鑑賞の参加者や目的がどうであっても変わらないかもしれないですね。

絵を見て昨日の夢の話をずっとする人とかもいたんですけど、ある程度のところで終わらせないとその人だけが喋り続けてしまうので、途中で「ありがとうございます」と切らないといけなかったり、逆に全然話さない人もいたり、そこはもう対話型鑑賞の方法論というより司会進行能力の問題だったりするので、やっぱりファシリテーションの技術は必要だな、というのはあります。

山本:こうやって話を聞くと、対話型鑑賞の進行役に求められるものってかなりありますよね。

対話型鑑賞について調べていると、「誰でもできますよ」みたいに説明しているサイトも結構あるんですが、マニュアル化されているVTSから先に進もうとすると、誰でもできるような内容じゃなくなってきてるなと思います。

「美術を学ぶための対話型鑑賞」か「美術を通して学ぶための対話型鑑賞」かで設定する内容も変わってくるし、目的に応じて作品を選定できるようになるための知識や、対話を促すための司会進行能力も必要になってくる。

蔵多:いやー、そうですね。

対話型鑑賞の進行役になろう、という人は結構強い意志がないと難しいというか、勉強する姿勢を持ち続けないといけないと感じます。

山本:勉強っていうか、そこまでいくともう研究分野ですよね。

蔵多:YCAMでのレクチャーでは、作品に関するディスクリプション(解説書)をしっかり書いて、それを頭に入れた上で対話型鑑賞をしていかないと深い鑑賞にはならないというようなことを教えていただきました。

山本:ただ、そうなるとどこまで作品に対して理解するべきかという問題も出てきますよね。

解説本や美術史のテキストに載っている情報を押さえておく程度なのか、それとも時代背景や文化的・政治的背景、作家の生い立ちや人間関係などまで抑えていくのかとか、突き詰めていくとキリがない。

蔵多:そうなんですよ。

対話型鑑賞は、沼みたいなものだな、というのが私もやってて思いますね。

山本:いろんな意味で沼ですよね。

調べていて結構ややこしいことになってるなとも思ったのですが、蔵多さんの話を聞いているとそれが対話型鑑賞の奥深さでもあるとも感じました。

「対話型鑑賞とはこういうものです。やってみませんか?」みたいなサイトはたくさんあるんですが、対話型鑑賞を実際やってみてどうかという話を掘り下げたものはなかなか見当たらなかったので、こうしてお話を聞くことができてよかったです。

蔵多:私自身は、対話型鑑賞を体系的に学んだわけではなく、数日間のレクチャーを通して現場で実践しながら考え続けているような立場です。違っていることもあると思うので、遠慮なく教えていただきたいですし、各地の実践例をどんどん知って自分の実践にも活かしていきたいです。対話型鑑賞だけではなく、「鑑賞する」という活動を通して、作品を見る側、受け取る側の姿勢が育ち、美術・芸術を理解し味わう風土が全国各地に育っていけば良いなと思います。

山本:作品を見る側、受け取る側の姿勢が育ち、美術・芸術を理解し味わう風土が全国各地に育っていくというのは本当に大事ですようね。

お話を聞かせていただきありがとうございました。