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建築家渡邉義孝さんへのインタビュー前編

今回は台湾と日本で出版されている『台湾日式建築紀行』という本の紹介と、本の著者であり建築家である渡邉義孝さんへのインタビュー記事を、前編と後編に分けてお送りさせていただきます。

渡邉義孝さんは一級建築士として住宅設計や古民家再生、文化財調査などの業務を行うかたわら、ユーラシア(ヨーロッパからアジアまで)の各地を巡りながら建築をスケッチ・調査するフィールドワークを行っており、『台湾日式建築紀行』は、渡邉さんが2011年から台湾各地をめぐりながら調査した日式建築に関するフィールドノートをベースに作られた本です。

2019年に華語(中国語)版として『臺灣日式建築紀行』を、ついで2022年に『臺南日式建築紀行』が出版され、待望の日本語版は2022年秋に大幅に増補した内容で『台湾日式建築紀行』としてKADOKAWAより出版されました。

建築に関するスケッチやマニアックな記述が多い内容となっていますが、建築に関する知識がない方でもこの本を持って台湾を歩き回り、現地の日式建築と照らし合わせながら読むことで、日式建築や台湾の街並みへの理解をぐっと深めることができます。

もうすでに何度か台湾を旅行しているという人でも、この本を片手に台湾の街を歩くだけで、いままでとは違った発見があるでしょう。

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KADOKAWAより出版されている台湾日式建築紀行

山本:そもそも台湾の日本統治時代のことや日式建築を知らない人も日本には多いと思います。

(台湾は日清戦争の結果、清朝から日本に割譲され、1895年から第二次世界大戦で日本が敗れる1945年までの50年間、日本によって統治されていました。)

日本統治時代に作られた建物のことを台湾では日式建築と呼ぶことが多いとのことですが、日式建築と呼ばれる建物のすべてが日本にあるような木造・和風のものであるというわけではなく、当時日本でも洋風建築が盛んに作られていたように、台湾でも日本人建築家などの手によって洋風建築が多く作られていたため、そうした洋風建築も含めて日式建築と呼ばれており、日式建築を学術的に定義する明確な基準はまだ定められていないと聞きます。

台湾の中での日式建築の特異性を理解するためには、まず台湾の原住民や漢民族の建物について知った上で比較するのが良いかと思われますが、それぞれどのような特色や違いがあるのでしょうか?

渡邉:日本が統治する以前から、台湾には閩南(ビンナン)式という建築がありました。

壁は煉瓦で、屋根架構は木造、中庭を囲うようにコの字型に家が配置されている三合院形式が特徴的です。

「閩」は福建省のことで、「閩南」は台湾に住んでいる人々の多くが福建省の南部から来ていることに由来しています。

それ以外にも原住民の建物や文化があり、また、中国の清の時代にもかぶっているので、都市構造やインフラに関しては清朝末期の遺構もありました。

そこに日本が入ってきて、一気に近代化を進めます。

1895年から1945年といえば、都市も産業も人びとの生活も一気に近代化した時代ですね。

台湾では近代化のプロセスのほぼ全てが日本統治時代とかぶっているため、ヨーロッパ風の西洋建築も和風建築も、さらにはモダニズム建築やアールデコ、セセッションなどまで、それらが日本を経由して入ってきたことで、全部ひっくるめて日式建築と呼ばれることが多いようです。

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三合院造りの閩南式建築(渡邉さんより写真提供)

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台東に保存されている原住民の建築(渡邉さんより写真提供)
かなり高床になっているのが特徴的。今はほとんど現存していないが、日本統治時代にはまだこうした建物に住んでいる人もいたとみられる。

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代表的な日式建築の一つである梅沢捨次郎設計の林百貨。(渡邉さんより写真提供)

山本:日本統治時代に作られたものは全て日式建築という認識が一般的なのでしょうか?

渡邉:日式建築というものを広く捉えている人の中にはそう考える人もいます。

人によっても日式建築の定義は全然違い、日本人の建築家が関わったものだけを日式建築という人の方が多いのですが、台湾人の中には舶来ルーツのあらゆる建築を日式建築として括ろうとする傾向もあるとは言えるでしょう。

山本:日本人が海外から影響を受けたものを何でもかんでも洋風と呼んでしまっていることに似ていますね。

渡邉:そんな気がします。

たとえば長崎のグラバー邸は純粋なヨーロッパの建築様式ではなく、東南アジア由来のコロニアル(植民地)様式なのですが、あれこそ「洋館のルーツ」と考えている日本人は多いですね。

私はちょっと違和感を覚えますが。

そんな構造にちょっと似ているかもしれませんね。

日式建築に話を戻しましょう。

台湾に原住民や閩南ルーツの文化的背景があるところに日本が入ってきて、植民地に日本の権威を示すために役所や銀行、病院など、威厳のある建物を続々と作っていきました。

その一方で、住宅に関しては和風の長屋や洋風長屋などの木造住宅がたくさん作られていきます。

そもそも台湾で「すべて木造」という建築は稀だったので、この時期の日式建築は台湾各地でいまでも目立つ存在です。

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日式建築の住宅。台湾の風土に合わせてレンガ基礎が高く作られ、南京下見板で仕上げられている。

また、商店は全く別のベクトルで、台湾人あるいは漢民族特有の派手で縁起担ぎ大好きな、ゴテゴテとしたバロック建築が生まれていきます。

威厳を求めた大建築、日本から来た人たちが気持ちよく過ごせるような畳敷きの和風の木造住宅や長屋、そして台湾人が主体となったバロック的な商店建築、この三つの系譜が主になりながら、日式建築というものが非常に複雑なレイヤーを持って花開いていく。

ちょっと乱暴だけど、それらを全部ひっくるめて日式建築と呼んでもいいんじゃないかと考えています。

また、それら三つの系譜が混ざり合った台湾独自のものとして、祠廟(しびょう)建築の例があります。

これは閩南ルーツの祠廟(祖先などを祀る建物)にヨーロッパ風あるいは和風のデザインがミックスされており、たとえば下の写真の建物は三合院の形式なのに、門はライオンの彫刻が施されたバロック風で、中に入ると丸いバルコニーがあったり、屋根瓦は閩南式だったりと、異様な造りになっています。

そういった、これは日本とは関係ないだろうと思ってしまうようなバロック建築などまでが日式建築として扱われているということが、台湾の日式建築の面白さでもあり、複雑さでもあります。

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台湾の祠廟建築(渡邉さんより写真提供)

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ライオンの彫刻が施された祠廟の門(渡邉さんより写真提供)

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閩南式の瓦(渡邉さんより写真提供)

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祠廟内部にある丸いバルコニー(渡邉さんより写真提供)

山本:日本統治時代のあいだ、台湾の人々と良好な関係を築いていた日本人もいますが、台湾人を見下し、横柄な態度や粗暴な振る舞いをしていた日本人も多かったと聞きます。

立派な建物が日本の力を誇示する示威行為の一環として造られたように、日式建築や日本統治時代には負の側面もあり、日式建築ブームと言われる中で複雑な思いを抱く台湾の人々もいるのではないでしょうか。

渡邉:それは僕も常々感じていることで、日本と台湾は兄弟だなんて言う日本人もいるけど、宗主国と植民地という非対等な関係だったことは忘れてはいけないと思います。

特に日本統治時代の初期には台湾の人々は日本に抵抗してたくさん殺されています。

山本:そうですよね。

霧社事件など、日本の統治に反発した原住民や台湾の人々に対して明らかに行きすぎた武力による鎮圧や非人道的な行いが台湾でもあったと知ったときは衝撃を受けました。

渡邉:そうなんだよね。

「日本の領土」「日本の臣民」と言って戦争末期には徴兵制も敷いたけど、台湾人には国政選挙権すら与えなかった。

当時の日本人と台湾人の関係は、建築の歴史からも見えてきます。

たとえば、高雄の市営住宅の設計書を見ると、おなじ「丁号住宅」というランクでも、内地人(日本人)は1戸あたり7.75坪の4戸長屋なのに、本島人(台湾人)は1戸あたり5坪の10戸長屋と歴然とした差があった。

日本人が台湾人の人びとをどう見ていたのかということが、こういうところにも表れているのです。

ただ一方で、日本統治時代の社会や道徳、教育がよかった、立派だったと懐古する人が多いのも事実ですね。

これについては、1945年の敗戦で日本人が去った後に中国大陸から入ってきた国民党の人々の姿に失望したからだ、という話はよく聞きました。

「彼らは教養も学問もなく、服装もあまりにひどかった」「蛇口から水が出ることも知らなかった」という話もあります。

そういう人たちが「新たな支配者」として入ってきて、軍も政府も大学も工場も、トップの人間が国民党の関係者に変わり、「これが中国というものか」とショックを受けたのだ、と。

日本語教育ではあったが、当時の台湾人は識字率も高く、一定の知的レベルを持っていたわけでしょう。

だから、屈辱を感じたはずです。

そういう中で「日本人の方がまだ良かった。時間は守るし、賄賂も求めなかった。」という意識になって、日本への憧れも強くなったというのはよく聞くことだよね。

山本:当時の中国はイギリスや日本などの侵略を受けたために荒廃していて、台湾にやってきた人々の様子もかなり酷かったみたいですね。

もし台湾にやってきた中国人がそれほど酷くなかったら、台湾の人々が日本統治時代に対して抱いている印象もかなり違っていたのではないかと思います。

渡邉:ただ、(日式建築が注目される理由は)もう一つあって、台湾アイデンティティのよすがとしての日式建築、という側面なんだ。

戦後、50年にも及んだ国民党政権の戒厳令下では、学校では中国大陸の歴史を学ばされた。

山東省とか河北省、四川省とか湖南省とか。

肝心の台湾のことは学ばない。

中国人としてのアイデンティティが強制されたわけ。

しかし、2000年前後からの民主化の過程で、やっと台湾のことを学ぶ機運が高まった。

それは民主化運動の激しい戦いによって勝ち取られたことだったんだけど、その時に「では、台湾の歴史を語るものって何?」と問われた。

そして身近にたくさん残っていた日式建築が台湾の歴史を証明するものとして注目されるようになり、台湾アイデンティティの勃興と日式建築への再評価が重なって進んでいく。

これが2000年以降の10年くらいの動きだったと思います。

2010年代に入ってからは、アニメなどのサブカルチャーや若者のポップカルチャー、日本ブームも含めて、おしゃれな空間として日式建築のリノベーションがどんどん進んでいった。

そういう時代の要請や求めるものの変化によって、日式建築というものが上手く使えるような空間になってきた。

あと、台湾の特殊な事情として、都会のど真ん中に昔の工場(日式建築も含む)が結構残っていた。

そうした工場が国際的な貿易のなかでどんどん操業をやめていったものの、すぐにマンションなどに建て替えられたりすることもなく廃屋化していた。

それが文化創意園区(アーティスト村のようなもの)としてどんどん再生されていき、今では文化創意園区がない町がないくらいブームになっています。

山本:私もいくつか文化創意園区を見にいったことがありますが、本当に台湾のあちこちにできてますよね。

渡邉:倉庫って空間が広くて天井が高いから、アートとの親和性も高いよね。

でもやっぱりベースにあるのは、台湾アイデンティティというものを自分たちが探そうとしたときに、身の回りにあった日式建築というものが自分たちの歴史の証になってくれると気づいた人々の思いだと言っていいと思います。

山本:二・二八事件で日本語や日本の歌が、中国人と台湾人を見分けるための手段として用いられたという過去が台湾にはありますが、今の日式建築ブームもそれに似ているところがあるのかもしれませんね。

日本統治時代のことは屈辱的な歴史でもあるけど、台湾は中国とは異なる独自の国家だということを証明するための要素の一つとして、日式建築が今は活用されているという認識がおそらく妥当で、日式建築ブームを「台湾の人々は日本のことが好きだから」とか、「日本をリスペクトしているから」というふうに解釈してしまうと、台湾の人々のマインドとはかけ離れた理解になってしまうのではないかと感じることがあります。

渡邉:僕もそう思いますね。

本当に複雑なんだよね。

これは本にも書いたことだけど、花蓮で出会った90代の老人が、何度も話を聞きに通ってはじめて「やっぱり日本人には許せない思いがある」とポロッと言ったんだよ。

駐在所の前で台湾人が日本人警官に地面に引き倒されて殴られているのを見ていたと。

そういう人々が抱え込んでいる思いは、観光で旅するだけではなかなか感じられないし、表向きはみんな日本人大好きって言ってくれるからね。

でも裏にはやっぱり一人一人に耐え難い、いろんな記憶があったりする。

だから本当にデリケートな問題で、少なくとも僕ら(日本人)は支配した側の人間の末裔として、薄氷を踏むような思いで言葉を選びながら現地の人に接しなくちゃいけない。

「この建物いいですよね」って無邪気に言っていることが、もしかしたら現地の人の気持ちを傷つけているかもしれないというのは、いつも感じています。

(インタビュー後編へと続きます。後編は6月初め頃寄稿予定です。)

渡邊義孝

一級建築士事務所 風組・渡邉設計室 代表
尾道市立大学非常勤講師
NPO尾道空家再生プロジェクト理事として空き家バンク業務、建築調査業務を担当

著書

共著

など