ドクメンタ15をめぐって巻き起こっている問題
ドイツにいる友人から、「今年のドクメンタの動向追ってる?荒れて凄いことになってるよ!」との連絡が来た。新型コロナウィルス感染症に対する各国の対応もだいぶ落ち着いてきたとはいえ、まだ完全に収束したわけではなく、コロナによる影響だけでなくロシアによるウクライナ侵攻の影響などもあって航空チケットの値段も高騰しており、今年はドイツに行く余裕はなさそうだと諦めていたため、怠惰にもドクメンタ15の内容をちゃんと追っていなかった自分を恥じました。
友人からのメッセージを受けて慌てて検索してみると、あいちトリンエナーレ2019「表現の不自由展」の騒動を彷彿させるような事態になっているではないですか。
実際にドクメンタ15を現地まで見に行ったわけではないのに、ドクメンタ15をめぐって巻き起こっている問題について書くのもどうかと悩みましたが、昨今の情勢により、実際にドクメンタ15を見に行った日本人や日本人ライターが極端に少ないためか、閲覧できる日本語記事も少なく、英語やドイツ語ができない人には情報を集めてきて全貌を把握するのも難しいのではないかと思われたので、私なりにまとめたドクメンタ15で繰り広げられている騒動についての情報を掲載したいと思います。
まずはドクメンタについて。第二次世界大戦中のナチ独裁下での弾圧から解放され、戦後ドイツの芸術の復興としてドイツの地方の都市の一つであるカッセルで行われたドクメンタは、ナチスが退廃芸術として弾圧していたモダン・アートの名誉回復のため、ピカソやマティスなどの前衛芸術運動の作家たちの業績を振り返る展覧会から始まりました。
今では現代性や社会性・政治性の強い作品を多く取り扱う、テーマ性を重視した現代美術展として、現代美術の中でも特に重要な展覧会の一つです。ドクメンタという名称も、「時代の記録」という意味を込めて命名されたもの。
展覧会は5年に一度開催され、その都度アートディレクターが代わり、アートディレクターの決めるテーマや人選によって展覧会の内容も大きく変わるため、誰がディレクターとなり、どのようなテーマを選ぶかということが毎回注目されます。
前回、2017年に開催されたドクメンタ14では、ポーランド出身のアダム・シムジックによって「アテネに学ぶ」というテーマで、ギリシャの首都アテネとドイツのカッセルの2会場で開催され、西洋文明・難民危機・経済危機を強く意識させる内容となっていました。
ドクメンタ14に展示されていた作品には膨大な資料から構成されている作品や、予備知識がないと読み解けない作品も多く、全容を理解するには一ヶ月かけて見て回っても全然時間が足りないのではないかと思うほどでしたが、今まで知らなかった西洋諸国の側面や問題もそれぞれの作品を通して浮かび上がってきて、それらがドクメンタという展覧会の中で総合されていくことによって、改めて西洋文明というものについて考えさせられました。
今回開催されているドクメンタ15は、欧米人ディレクターやアーティストが多く、いかにも欧米的な文脈から展開されることが多かったこれまでのドクメンタとは内容が大きく異なります。ディレクターにはインドネシアのアート・コレクティブ(ソロでも活動するアーティストの集まり)であるルアンルパがアジアから初めて抜擢され、「ルンブン」というモットーと「芸術じゃなくて、友達を作ろう」というスローガンを掲げています。
ルンブンとはインドネシア語で共有の米倉を意味する言葉であり、それぞれの農家が余った米をルンブンに持ってきて共同体の皆で分け合うインドネシアの風習を今回のドクメンタに当てはめ、知的資源や物的資源を共有し、分け合っていくというテーマを表したものです。
そのテーマは展覧会の運営手法にも適用されていて、通常の場合、アーティストの予算は各アーティストの事情(ネームバリューや作品の規模、必要な人件費・交通費・輸送費など)も考慮されて算出され、運営側から提示された予算で足りない場合はアーティストが個別で取ってきた助成金なども活用して制作を行うのが一般的ですが、今ドクメンタでは各アーティストが受けている助成金なども全て共同資源庫に一度集約してから共有(分配)するというシステムが取られています。展示内容は交流や議論を生み出すような作品が多く、そうした作品を通して生まれた交流や議論を「ハーベスト(収穫物)」と呼び、収穫物がルンブン(ドクメンタ15)を通して再び地域社会の中に共有されていくことが狙いとなっています。
また、選出されているアーティストも今までのドクメンタの傾向とは異なり、グローバルサウスと呼ばれるアフリカ・アジア・南米などの現代資本主義のグローバル化によって負の影響を受けている場所や人々から多くの作家が選ばれており、欧米の有名アーティストの名前はほとんどありません。
ルアンルパの結成当初から関わる中心メンバーの多くは、1998年までの約30年間インドネシアで行われたスハルト独裁政権下での抑圧された経験があり、自由に集会も行えず、作家がグループで活動することも難しかった反動から、ルアンルパは仲間との交流を中心に活動を展開していくことに大きな比重を置いているようです。独裁政権下からの解放と、その反動から展開されるという活動の流れはドクメンタの歴史とも重なって見えます。
交流を重視しているルアンルパの姿勢は、「芸術ではなく友達を作ろう」というスローガンにもはっきりと表れており、単に欧米中心主義へのアンチテーゼとしてだけではなく、分断と荒廃の進む世界に対して精彩を失い始めている現代アートへのアンチテーゼとして、批判性よりも交流から何かを生み出していくことを重視しているルアンルパが芸術監督に抜擢されたのではないでしょうか。
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"Documenta as a Common"
ruangrupa in conversation with Adam Szymczyk moderated by Nora Sternfeldhttps://t.co/ckLyTXc4lj pic.twitter.com/Yl0rig166A— ruangrupa jakarta (@ruangrupa) August 16, 2021
ルアンルパ公式ツイッターより、ノラ・スターンフェルドの司会で前ドクメンタのディレクターであるアダム・シムチクと対談するルアンルパ。
しかし、ドクメンタ15は、おそらくドクメンタの運営とルアンルパが予想していなかったかたちで話題と議論を呼ぶことになってしまいました。最初のきっかけは、ルアンルパがパレスチナのグループである Question of Funding の展示を決めたことに対し、ドイツの一部のユダヤ人団体が Question of Funding のメンバーはBDS運動(イスラエルが国際法に違反する行為を中止し、国際法を遵守するまで、イスラエルに対してボイコットや投資撤収などの制裁を行う運動)の支持者であると主張し、Question of Funding がドクメンタ15で展示を行うことを批判したことに始まります。
ルアンルパとドクメンタは、 Question of Funding がBDS運動を支持しているというユダヤ人団体の主張を否定しましたが、ドイツの複数の新聞が根拠の裏付けもしないままこの問題を取り上げたため、炎上が広がりました。Question of funding の展示予定スペースには、殺人を意味する「187」と書かれた落書きが描かれるなど、脅迫や破壊行為とみられる事件も起きています。
この問題を受けて、ドイツのフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー大統領はドクメンタ15の開会式にて、“Those who enter the political forum as artists must not only come to grips with aesthetic questions, but also with the political debate and criticism. And there are limits here!” (訳:「アーティストとして政治の場に出る者は、美的な問題に取り組むだけでなく、政治的な議論や批判にも取り組まなければならないのです。そして、ここには限界があるのです!」Der Bundespräsident - Opening of documenta fifteenより引用)と発言しました。
スピーチ全体を読むと、反ユダヤ問題を刺激しすぎないようにフォローも入れつつ、アートや表現の自由の重要性も説いており、この発言は表現の自由を制限する趣旨というより、いかに政治的な問題を取り扱うことが難しく、アートもまた万能でないということについて、政治家という立場から意見したと捉えるのが妥当ではないでしょうか。
ドイツは第二次世界大戦中にホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)を行ったという負い目から、ユダヤ人批判には特に慎重にならざるをえないという背景があります。
日本ではユダヤ人に馴染みがなく、ユダヤ人をめぐる問題を理解し難いのですが、ユダヤ人が迫害されてきた歴史は根深く、中世ヨーロッパではユダヤ人はキリストを処刑したと差別を受け、疫病などの災難が起きるとユダヤ人が迫害されるという歴史が繰り返されてきました。
そうした迫害の中で、かつてユダヤ人の国があったパレスチナの地に戻り、もう迫害を受けなくてもいいように自分たちの国を作ろうするシオニズム運動が生まれますが、第一次世界大戦では自分たちの国を作りたいという悲願につけ込まれてユダヤ人の金融家が蓄えてきたお金をイギリスに騙し取られ、第二次世界大戦ではナチスドイツによるホロコーストで大量に虐殺されるなど、ユダヤ人の被害者としての歴史は悲惨極まります。
ホロコーストに遭ったユダヤ人への同情もあって、1947年に国連総会でパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人の2国に分け、エルサレムを国際管理下に置くとするパレスチナ分割を決議し、翌年にはユダヤ人の悲願であったイスラエルが建国されるも、当然元々住んでいたパレスチナ人(パレスチナのアラブ系住民)や周辺のアラブ諸国は反発して、イスラエル建国翌日の1948年5月15日には周辺のアラブ諸国がイスラエルに侵攻し、中東戦争が勃発します。
この戦争によって故郷を追われた大量のパレスチナ人難民が生まれるも、イスラエルが国連の分割決議で決まった領土を守っている間はユダヤ人も被害者であるという見方があったのですが、1967年の第三次中東戦争で国連によって定められていた領土を超えて、パレスチナ人が住むヨルダン川西岸やガザ地区を占領し、国連の統治下にあったエルサレムの併合も一方的に宣言したことにより、ユダヤ人被害者の集まりではなく加害国イスラエルという見方も強まっていきます。しかし、その後パレスチナやアラブ側からイスラエルを標的としたテロも行われ、どちらが加害者でどちらが被害者とは簡単には割り切れない複雑な情勢が続いているのが現状です。
Question of Fundingへの批判で争点となったBDS運動は、イスラエルが国連の決議を守らずにパレスチナを不法に占領していることなどに対して行われている、ボイコットなどの非暴力的な行動による訴えです(イスラエル側としては、イスラエルではすでにユダヤ人とアラブ人が差別なく自由に混住しており、イスラエルをアパルトヘイト国家とみなすBDS運動は間違っており、反シオニズム・反ユダヤ的運動だと批判していますが、BDS運動の是非についてはここでは触れません)。
Question of FundingがBDS運動に参加しているかどうかは不明ですが、仮に参加していたとしても、パレスチナ人アーティストがイスラエルに非暴力的な方法で国連決議の遵守を求めるBDS運動に参加すること自体には何も不思議はないでしょう。しかも参加しているという証拠すらない憶測によって表現の機会を奪われるのだとしたら、それは明らかにおかしいと言えます。実際、この件に関してドイツの文化人の間ではQuestion of Fundingやルアンルパを擁護する動きが強かったようです。
ドクメンタ15では反ユダヤ主義やイスラム恐怖症などについて話し合うイベントも企画されていたましたが、脅迫行為などの事態の緊迫によって中止となり、思わぬかたちで交流と議論の収穫は失敗してしまいました。
そして更に問題となったのが、タリン・パディというインドネシアのアート・コレクティブが展示していた People’s Justice(民衆の正義)という作品です。この作品はドクメンタ15のために制作された新作ではなく、2002年の南オーストラリア芸術祭で発表されたものを展示しており、巨大な垂れ幕に様々な国の兵士や戦争が想起される内容の絵が描かれています。
この作品の本来の主旨はインドネシアのスハルト独裁政権の暴力や虐殺をはじめとした、軍国主義や暴力に反対するもので、反ユダヤ主義的な内容を意図したわけではないと作者は公表しており、南オーストラリア芸術祭で展示されていたときには特に問題もありませんでした。しかし、イスラエルの国家情報機関モサドのメンバーと見られる兵士も描かれていることや、ユダヤ人の特徴を描いたユダヤ人とみられる人物の帽子に、ナチス親衛隊を意味するSSのマークが付けられていることがユダヤ人をナチス(=悪の権化)として位置付け揶揄していると解釈されたことなどから、ドイツでは大炎上してしまいました。
これには Question of Funding の件では擁護に回っていた人々からも、タリン・パディの表現への批判が相次いでいます。
„Der Jude“ als zoomorphes Wesen mit verzerrter Physiognomie (blutunterlaufene Augen, spitze Raffzähne, krumme Nase) samt Kippot, Hut und Schläfenlocken. Auf dem Hut prangt eine „SS“ Rune, die „den Juden“ als Nazi und somit als das personifizierte Böse charakterisiert #documenta15 pic.twitter.com/IqMU4YqADt
— Thorsten Sommer (@ThorstenSommer1) June 19, 2022
当初は芸術の自由を尊重し、ドクメンタを擁護していたドイツのクラウディア・ロート文化大臣も、強まる批判を受けて態度を一変し、ドクメンタ15の展示内容に対して介入する姿勢を示しました。
ドクメンタからの6月20日の声明では、 ”It is not meant to be related in any way to antisemitism. We are saddened that details in this banner are understood differently from its original purpose. We apologize for the hurt caused in this context. Therefore, with great regret, we cover up the work. This work then becomes a monument of mourning for the impossibility of dialogue at this moment. This monument, we hope, will be the starting point for a new dialogue.”(訳:「反ユダヤ主義とは一切関係がありません。この横断幕の細部が、本来の目的とは異なる形で理解されていることを、私たちは悲しく思っています。このような事態を招いたことをお詫び申し上げます。そこで、大変遺憾ではありますが、作品を覆い隠します。そして、この作品は、対話が不可能な今を悼むモニュメントとなるのです。このモニュメントが、新たな対話の出発点になることを願っています。」Documenta fifteen - On the concealment of a work by Taring Padi at Documenta fifteenより引用)と発表され、People’s Justice は黒い膜で全体が覆われました。
しかし、結局People’s Justiceを含めたタリン・パディの作品は政治的な圧力も加わって撤去され、対話が不可能であることを悼むモニュメントとしても存続することができなくなり、この問題をめぐる議論は未だ紛糾しています。
自由な解釈の余地はアートの魅力の一つでもありますが、作者が意図していた内容とは異なるかたちで解釈され、その結果、鑑賞者や作家が傷ついてしまうことも珍しくありません。ときには悪意ある第三者によって故意にねじ曲げられた解釈が広められ、不当に作者や作品が貶められることもあれば、逆に作者に悪意はないものの、配慮の足りない表現によってひどく傷つけられてしまう人もいます。
いくら解釈の自由や表現の自由があるといっても、悪意ある行動や侮蔑的・差別的な表現は当然批判され、場合によっては法的な処分も下されます。望まないかたちでの解釈が行われる可能性や、自分の表現が誰かを傷つけてしまう可能性が常にあり、それに対応していくことは作家であるために必要な覚悟であり義務でもあると言えますが、それと表現(展示)する機会が奪われることはまた別問題です。
表現内容に問題がある場合、作家はそれによって起きる批判を受け止める覚悟が必要ですが、犯罪となるような内容でない限りは、批判されたり問題が起きたりする可能性があるからといって表現や展示する機会そのものが奪われるようなことはあってはならないことです。
そのような理由で表現や展示の機会が奪われるのであれば、社会問題や政治的な問題を題材にした作品など作れないでしょう。
今回の問題はタリン・パディのドイツやユダヤ人問題に対する理解が足りていなかったことが原因だとも批判できますが、たとえアーティストが事前に調査や学習を行なっていたとしても、何が問題として見られるかは問題が起きてみるまで分からないことも多く、かと言ってドクメンタの運営側が批判を避けるために全ての作品をチェックし、タリン・パディの作品の展示を止めていたら、それは検閲だとしてまた別の批判にさらされることになります。
特にドイツはナチス独裁下での検閲も問題視しており、ナチスの芸術への弾圧から解放されて発足したドクメンタとしては、検閲的な行為はとても容認できないものです。それであるにもかかわらず、結果的にタリン・パディの作品が批判だけに留まらず撤去までされ、展示の機会が奪われたことは芸術への弾圧と表現の自由への侵害とも見なすことができるため、第二次世界大戦でのナチスの負債である「ユダヤ人への贖罪」と「表現の自由の保障」という二つの問題が架けられた天秤の上でドイツは揺れ動いています。