印象派の始まりを考える
2026年上半期、東京では印象派にまつわる二つの展覧会が続いた。アーティゾン美術館でのモネ展と、SOMPO美術館でのブーダン展である。

クロード・モネ《戸外の人物習作-日傘を持つ右向きの女》1886年、油彩・カンヴァス、130.5×89.3cm、オルセー美術館蔵 Photo © GrandPalaisRmn (musée d’Orsay) / Stéphane Maréchalle
《印象・日の出》によって印象派の名の由来となったクロード=オスカール・モネ(1840–1926)。そして、若きモネを風景画へと導き、印象派に先駆けて光の変化を描いたウジェーヌ・ブーダン(1824–1898)。本記事では、二人の関係をたどりながら、印象派の絵画がどのように生まれたのかを考えてみたい。
「印象派」という名前
「印象派」という名前は、もともと批判の言葉から生まれた。
1874年、モネやルノワール、ドガらは、公式の展覧会とは別に、自分たちの作品を集めた展覧会をパリで開いた。そこにモネが出品したのが《印象・日の出》である。
この作品を見た批評家ルイ・ルロワは、題名の「印象」という言葉を取り上げ、画家たちを皮肉を込めて「印象主義者」と呼んだ。細部を描き込まず、筆跡を残している様が、当時の人々には制作途中のスケッチのように見えたのだ。
しかしモネがこだわったのは、船や建物を正確に写しとることではなかった。その瞬間、目の前の風景がどのように見えたかを捉えようとしたのである。
印象派の画家たちは、色を完全に混ぜず、筆跡を隣り合わせに置いた。少し離れて見てみると、それぞれの色が目のなかで結びつき、画面全体が明るく見える。当時の人々にとって、この描き方は大胆で新しいものであった。
光の表現
印象派の画家たちが光の表現を追求した背景には、戸外制作の広がりがあった。19世紀にはチューブ絵の具など持ち運びやすい画材が普及し、画家たちは屋外で制作しやすくなったのだ。
外に出て自然を観察してみると、ものの色は一定ではないことに気づく。同じ海でも、朝には青白く、夕方には赤や紫を帯びる。
印象派の画家たちは、ものには一つの決まった色があると考えるのではなく、光や天候によって色が変化すると考えるようになった。こうして、それまでの絵画にはない明るい外光が、混ぜない筆跡によって表されるようになったのである。
モネとブーダン
モネはパリに生まれ、幼少期から青年期をノルマンディー地方の港町ル・アーヴルで過ごした。若い頃のモネが得意としていたのは、風景画ではなく風刺画であった。町の人々の特徴を面白おかしく捉えた似顔絵を描き、地元で評判を集めていたらしい。
そんなモネに風景画の魅力を教えたのが、同じル・アーヴルで活動していたブーダンである。ブーダンは1850年代、まだ10代だったモネと出会い、自然を目の前にして描く戸外制作へと誘った。モネはやがて風刺画から離れ、海や空などの風景を描くようになる。
ブーダンが好んで描いたのは、故郷ノルマンディーを中心とする海岸や港であった。砂浜に集う人々や沖に浮かぶ船、港を行き交う漁師たち。そして、それらの上に広がる空である。
モネもまた、自然を直接観察しながら制作することを好んだ。同じ積みわらや大聖堂、睡蓮の池を、時間や季節を変えながら何度も描き、それが光によってどのように変化して見えるかを写しとろうとした。
このように、今私たちが「モネ」と言われて思い浮かぶ作品の数々が、変化する光の表現の追求を試みたものだということが分かる。ノルマンディーの海辺で空を描いたブーダンから、若いモネへ。受け継がれた光の見方が、印象派の出発点の一つとなったのである。
参考文献
秋山聰・田中正之監修『西洋美術史』、美術出版社、2021年。
高階秀爾『近代美術史(上):ゴヤからモンドリアンまで』、中央公論新社、1975年。

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