古民家での暮らしVol.7: 日本家屋と床の間2
前回、武家社会の中での序列を表す「格式」に重きを置く書院造の床の間と、千利休の考案した格式よりも精神的交流をはかることに重きを置く草庵風茶室の床の間があることを述べました。現代風にくだいて説明するならば、堅苦しく格式ばった書院造に対するカウンターカルチャーとして質素な美しさを愛でる草庵風が生まれ、そこからカントリー風なテイストが流行して茶室以外の建築にも浸透していったと言えます。
そんな草庵風茶室の影響を受けた床の間や建築様式のことを数寄屋風書院造と言います。もともと書院造とは対照的な性格を持っていた草庵風ですが、数寄屋風へと変わっていく過程で洗練されていく反面、草庵風の頃にあった精神性は徐々に薄れ、次第に技巧的な高級様式の一つとなっていきました。
数寄屋風として現在に伝わっている様式の中には草庵風茶室が考案される以前から建築に使用されていたものもあり、草庵風を含めた様々な様式が数寄屋風としてまとまっていったのだと思われます。
現在、草庵風の床の間として当初の精神性を残しているものは一部の茶室以外ではほとんど見られず、住宅等の日本建築にある床の間のほとんどは数寄屋風書院造であり、その名の通り数寄屋風と書院風の両方の様式や性質を併せ持っています。それが床の間の性質を複雑にしている一因と言えるでしょう。

数寄屋風書院造の床の間。
本来の書院造では床柱には面取りの角柱が使用されていたが、数寄屋風では写真のような釣床や丸太柱、竹など様々な床柱が使用される。またその他にも壁が土壁であったり、天井が竿縁天井であったりなど、様々な特徴が見られる。
もともと、床の間は武士や公家などの特権階級の使用する建物にあるもので、平民の家にはめったにあるものではなく、特権階級の象徴とも言えるものでした。
明治維新以降、武士という階級がなくなって大名や公家は華族となり、多くの中・下層武士が軍人や商人、役人、企業勤め(サラリーマン)などに転身して平民となりました。この新たに平民となった中・下層武士の家の間取りが近代の中流家庭向けの家のベースとなり、明治・大正にかけて日本が発展し裕福になっていく過程で、中流家庭になったことの証として床の間を作る家が増えていきます。
しかし、戦後の民主化運動の中で内田魯庵らによって床の間廃止論が提唱されたり、フローリングや洋風住宅の普及で和室の人気がなくなりはじめたりといったこともあり、床の間は段々と姿を消しつつあります。
実際、私も古民家のリノベーションを依頼される際に、畳敷きの床をフローリングに変えて欲しいという要望と共に、床の間をなくして部屋を広くして欲しい、あるいは床の間をクローゼットなどの収納に変えて欲しいというお願いをよくされます。
一昔前までは家を訪れた上司や知り合いなどのお客を床の間のある客間に通すという習慣や、祭事などで晴れの場として使用する習慣がありましたが、現代では家を訪れるのは基本的に友人や親類などの親しい人々だけであることが多く、格式ばった客間を必要とする場面は減りました。また、以前は花を飾るといえば床の間に生花を生けることを意味しましたが、現在では花瓶でテーブルや棚の上に飾ることが当たり前となり、床の間に飾る掛軸や置物を持っている人も少なく、床の間を持て余してしまう家が多くなっています。もはや格式ばった床の間は家庭の中には必要ないと言えるでしょう。
その一方で、美術品等を展示する場所としての床の間の存在はもっと見直されてもいいのではないかと私は考えています。
日本の古民家とドイツのアルトバウ(ドイツの築100年以上の建物)で生活した経験を比べて感じるのは、日本の家は壁面積が狭く、天井が低く、釘が打てる場所も少ないため、美術品を飾る場所がかなり限られるということです。日本ではポスターやポストカード、フィギュアなどはよく売れますが、大きな絵画や彫刻を買う人はほとんどいません。また、純粋な彫刻などよりも陶器など実用性のあるものの方が売れやすいように思います。その傾向は日本の家に美術品を飾る場所が少ないこととも密接な関わりがあるでしょう。
最近は壁を傷つけずに絵が飾れるようにピクチャーレールが作り付けられている家やアパートも見かけますが、小さな壁の前に雑然とした家具と並んでピクチャーレールから小さな絵がぶら下がっている様子はお世辞にも美しいとは言いがたいものです。それよりも、もし家に床の間があるのであれば、この床の間に何をどう飾ると美しいのか想像力を働かせ、自分なりの美意識や価値観をそこに表現し、活用していく方がより美しい空間を家の中に作り出せるのではないでしょうか。

ギャラリー兼アトリエ 晴と雲より、床の間に絵画や美術作品が飾られている様子。