古民家での暮らしVol.7: 日本家屋と床の間1
床の間の起源には諸説あり、中国の「牀」(床の旧漢字だが中国語では台を意味する)が日本に伝わって室町時代に建物に作り付けになったという太田静六による説や、僧侶等によって中国から伝来した仏絵・絵画・美術品等を飾るために壁の前に置いた台がやがて押板という作り付けのものになり床間に変化したという説、身分の格差を表すために畳を積んで高低差を作った上畳(上段)が床間になったとする説、江戸時代の学者の伊勢貞丈による仏壇を起源とする説など、はっきりと起源を決定づける定説とそれを裏付ける資料はまだないのですが、いずれにしても床の間は日本で独自の発展を経てできたものと言われています。茅葺・瓦葺きの屋根は細かな違いはあるものの世界各地で見られ、また柱と土壁からなる木造建築は中国・朝鮮等にも見られるため日本特有のものとまでは言えないのに対し、畳敷きの和室と床の間は日本建築特有のものと言って差し支えないでしょう。
そんな起源の曖昧な床の間ですが、実は家の中での役割も一言では説明できないちょっと複雑な性格を持ち合わせています。床の間と言えば掛軸や生花を飾る場所というのが一般的な認識ですが、その一方で床の間のある部屋では床の間の前を上座とするというマナーも存在し、客間として使用されることの多い床の間つきの部屋に通された客人が床の間を背にして座らされて、床の間に飾ってあるものを鑑賞できないという不思議な現象が日本ではよく起こります。
これは床の間がその発展の過程で単にものを飾るための設備から、その前に座る人の権威を高めるための道具へと武家社会のなかで転換されていったからではないかという説を太田博太郎という建築史家が「床の間」という本の中で述べています。
床の間の起源ではないかと言われている押板が記録に登場するのは貴族社会の栄えていた平安時代の頃。主に貴族が生活する寝殿造という建物で公家や僧侶などが中国などから渡って来た貴重な品などを台の上に展示していました。続く鎌倉時代(1185~1333年)、室町時代(1336~1573年)、安土桃山時代(1568~1600年)では武士の力が強まり、戦国時代(1467~1615年)とも呼ばれる動乱の時代が訪れます。その流れに合わせて、建築様式も貴族趣味的だった寝殿造から身分の序列を表すための格式を取り込んだ書院造という様式に変化していきます。床の間はその過程で建物の中に様式の一部として取り込まれていったのではないかと考えられており、武士が力で美術品を収集し、それらを誇示した壁や棚(床の間)を背にして威光を示すようになっていったのではないかという推測は、歴史の推移と照らし合わせても違和感なく受け入れられます。
また、マナーで言うと現在では床の間の上に座ることはマナー違反とされていますが、神谷宗湛という茶人の記した「宗湛日記」には豊臣秀吉が床の間に座ったという記録があることから、昔は床の間に座ることはタブーではなく、むしろ秀吉が床の間に座ったということは床の間が上段のようにも扱われていたとも読み取れ、このことから上段が床の間の起源だとする説を推している人もいます。
さて、以上のことはなぜ客間では客人が床の間を背にして座ることがあるのかということについての説明でしたが、茶道においては客人が床の間に背を向けて座ることはあまりありません。床の間の前が上座ということには変わりないのですが、下の図のように客人は床の間を横にして亭主と向き合うかたちで座ることが多いので、客人は床の間に飾られたものを鑑賞できます。
これは、茶道において床の間が権力を誇示するための場所として設えられているのではなく、そこに飾ってあるものを通して客人にその日の茶会のテーマやコンセプト、亭主の意思などを汲み取ってもらうことに主眼が置かれているためだと見ることができます。そもそも序列を明確化するための格式を含む書院造における床の間と、精神的交流をはかる場である茶室における床の間は別ものとして考える方が良いでしょう。ちなみに茶室には大別して書院造の流れを汲む書院風と、千利休が庶民の住む田舎家のエッセンスを取り入れて考案した草庵風のものがあり、一般的に茶室というと草庵風のものを指します。日本の美的観念としてよくもてはやされる「わび・さび」はこの草庵風と共に生まれた概念で、それまで裕福さの感じられる雅なものが美の主流であったのに対し、草庵風は田舎家のようなみすぼらしさがあり、そのような貧しい侘しさや寂しさの中から美を見出すことを提起しました。この新たな草庵風茶室の様式が住宅等にもとりこまれ、数寄屋風書院造へと繋がっていくのですが、その辺りは次回述べたいと思います。